昼食断り、紙一重で命つなぐ…15歳で被爆した女性 壊滅した長崎1人歩いた2日間「もうこんなことは」

AI要約

寺田嘉壽子さん(94)は三菱兵器住吉トンネル工場で被爆した体験を証言。15歳の少女が幸運で無傷であったこと、友人を誘われたが運命から逃れたこと、そして戻る途中の悲劇を経験したことが語られている。

被爆後、線路をたどり家に帰る途中で多くの死体に遭遇した嘉壽子。恐怖と焦りで眠ってしまい、生還後には涙と安堵がこぼれた瞬間が描かれている。

住吉トンネル工場での爆風がどれほど大きな被害をもたらしたかを物語る一方で、嘉壽子が偶然避難していた森での出会いや一時の安らぎが希望を与える要素として描かれている。

昼食断り、紙一重で命つなぐ…15歳で被爆した女性 壊滅した長崎1人歩いた2日間「もうこんなことは」

 長崎県新上五島町似首郷に住む寺田嘉壽子さん(94)は79年前、大勢の死傷者が出た三菱兵器住吉トンネル工場(爆心地から2・3キロ)で学徒動員中に被爆した。当時15歳の少女に何があったのか。証言に耳を傾けた。

 五島列島北部の小値賀島出身。8人きょうだいの末っ子。1943年に国民学校を卒業後、県立長崎高等女学校に進学。45年当時は、長崎市高平町(当時)の伯父方に下宿していた。

 太平洋戦争に入り、毎日のように動員に駆り出された。現在の長崎市住吉町から赤迫1丁目までの山腹を貫いて作られたトンネル工場が職場。魚雷部品を製造していた。大柄だったので男性ばかりの班に配属された。机の上に置かれた鉄の棒を機械で決まった寸法にカットする仕事。証言を総合すると、赤迫側の1号トンネル入り口付近で作業をしていたとみられる。

 8月9日午前11時ごろ。別のトンネルで作業していた女学校の同級生が「弁当を食べにいこうや」と誘いに来た。昼食にしては早い。男性班長は真面目な性格。「いま行けば『早か』って注意されるけん嫌よ。先に行っといて」

 別れ際、ふと空を見上げた。キラキラした何かが落ちてくる。思わず「きれいか」と思った。間もなくあたりが「黄色い光」に包まれた。爆風がトンネルを吹き抜けたが、無傷だった。

 班長の「逃げろ」と叫ぶ声。すぐにトンネルを走って出た。近くにテント張りの避難所がいくつかあったが、どこも満員。「あっちに行け」と言われ、仕方なく近くの森に身を隠した。一人でいるのは、心細くてつらかった。しばらくたってから、トンネルから2キロほど離れた道ノ尾駅を目がけて、線路を北上した。

 日は暮れていた。線路沿いの民家のおばさんが温かく迎えてくれた。先に男子学生が数人いた。たたみをめくった床下に、皆で並んで座るようにして寝た。

 翌10日早朝。おばさんは、おにぎりをくれ「道が分からなくなるから来た道を戻りなさい」と言う。高平町の下宿先に向かい、線路を南下することにした。満足に礼を言えなかった。

 約8キロの道のり。壊滅した爆心地付近を通った。焦げて縮んだ牛馬や人間の死体がいくつもあった。早く帰りたい一心で、気にとめる余裕はなかった。長崎駅前で伯父に会えた。ほっとして涙がほおを伝った。「おばさんが心配してるから早く家に戻りなさい」と言われ、下宿先に向かった。

 住吉トンネル工場では原爆投下当時、工員ら約1800人が作業していたとされる。トンネル外にいた人の多くが死傷。嘉壽子を昼食に誘った同級生の行方は知れずじまいだ。もしあの時、誘いに乗っていたら。「一緒にどがんかなっとったでしょう」。嘉壽子は紙一重で命をつないだ。