# 生存記録

「思い出すと胸がじーんとなる」 暗闇の中、海へ落ち3日間漂流した9歳 一緒に乗船した兄亡くす 疎開船「対馬丸」撃沈から80年  
2024.08.22

「思い出すと胸がじーんとなる」 暗闇の中、海へ落ち3日間漂流した9歳 一緒に乗船した兄亡くす 疎開船「対馬丸」撃沈から80年  

[のみこまれた未来 対馬丸撃沈80年](1) 福岡市内の自宅マンションの仏壇には、あどけない表情の男の子の写真がある。比屋根安忠(やすただ)さん、享年12歳。 那覇市出身の松永(旧姓・比屋根)和子さん(89)は、その遺影に水や線香を供え、手を合わせるのが日課だ。「思

元陸軍ガス兵の102歳男性「戦争は悪。もっと早く負けたらよかった」 何度も死線越え、戦後は教師に
2024.08.12

元陸軍ガス兵の102歳男性「戦争は悪。もっと早く負けたらよかった」 何度も死線越え、戦後は教師に

 太平洋戦争で旧陸軍ガス兵の訓練を受けた元高校教諭、永見小太郎さん(102)=滋賀県近江八幡市。同じ部隊の兵士は「私以外、みな戦死した」。足元に爆弾が落ち、機銃掃射に遭い、自宅が全焼するなど何度も九死に一生を得た。戦後79年。「戦争は絶対にあかん」と訴えている。■同じ部隊の仲間は

昼食断り、紙一重で命つなぐ…15歳で被爆した女性 壊滅した長崎1人歩いた2日間「もうこんなことは」
2024.08.09

昼食断り、紙一重で命つなぐ…15歳で被爆した女性 壊滅した長崎1人歩いた2日間「もうこんなことは」

 長崎県新上五島町似首郷に住む寺田嘉壽子さん(94)は79年前、大勢の死傷者が出た三菱兵器住吉トンネル工場(爆心地から2・3キロ)で学徒動員中に被爆した。当時15歳の少女に何があったのか。証言に耳を傾けた。 五島列島北部の小値賀島出身。8人きょうだいの末っ子。1943年に国民学校

「母が死んでほっとしました」原爆を生き抜いた「ヤングケアラー」がいた…いまだ「被爆者」に認定されず
2024.08.09

「母が死んでほっとしました」原爆を生き抜いた「ヤングケアラー」がいた…いまだ「被爆者」に認定されず

広島、長崎への原爆投下から、今年で79年。体験者たちにとって「あの日」は過去のことではない。4歳で原爆を体験した松尾栄千子(えちこ)さんは、病に倒れた両親を介護し、家事を一身に担うようになった。炊事に洗濯、畑の仕事まで。「あかぎれだらけになった私の手を見て、母は泣いていました」。

「戦争は人殺し」 79年前の釜石艦砲射撃 15歳の胸に刻んだこと
2024.07.12

「戦争は人殺し」 79年前の釜石艦砲射撃 15歳の胸に刻んだこと

 太平洋戦争末期の1945年7月14日、岩手県釜石市は海上から米軍の艦船による「艦砲(かんぽう)射撃」を受けた。当時15歳だった小田洋子さん(94)=盛岡市=は勤労動員されていた釜石製鉄所で防空壕(ごう)に逃げ込んで難を逃れた。地元で「艦砲」として語り継がれる79年前の戦災。小田さんの胸に刻ま

84分間続く焼夷弾から逃れた壮絶な一夜 「経験を話すのは私の役目」父から継いだ広告代理店で語る岡山空襲の記憶
2024.07.06

84分間続く焼夷弾から逃れた壮絶な一夜 「経験を話すのは私の役目」父から継いだ広告代理店で語る岡山空襲の記憶

2000人を超える犠牲者が出た岡山空襲から2024年6月29日で79年。当時を知る人は高齢化が進み、年々、語り部が少なくなってきている。当時5歳で戦火をくぐり抜け、現在、広告代理店で会長を務める男性が空襲体験を語った。「恐らくこの辺から出たと思う。真っすぐ、ずっと行ったと思う。そ