【Mummy-D×KOHEI JAPAN】神奈川・川崎の歴史再発見! 江戸から近現代、未来へ続いてゆく風景を求めて

AI要約

中原街道のクランクと小杉御殿について。クランクは渋滞の原因であり、御殿は将軍の宿舎として機能していた。近代化によりクランクが危険な道となり、拡張工事が進行中。

徳川家康が着手した二ヶ領用水について。用水奉行が水源を確保し、川崎の潤いを支えた人工水路。明治期以降は工業用水源としても機能し、現在は市民の憩いの場となっている。

歴史的な道と水路が現代の都市にどのように継承され、周辺環境に影響を与えているか。現在も歴史的な名残が残る周辺を散策することで、過去と現在のつながりに気づく。

【Mummy-D×KOHEI JAPAN】神奈川・川崎の歴史再発見! 江戸から近現代、未来へ続いてゆく風景を求めて

ヒップホップグループ「RHYMESTER(ライムスター)」の兄・Mummy-Dと、「MELLOW YELLOW(メローイエロー)」の弟・KOHEI JAPAN。2人は共に音楽シーンで活躍する一方で、大の歴史好き。今回は前編に引き続き、神奈川県川崎市を舞台に、江戸から近代、そして現代の人々の営みを体感するスポットを訪ねていきます。

■変わりゆく中原街道のクランクと小杉御殿

(by KOHEI JAPAN)

 川崎宿、六郷の渡しで本日何度目かの「遠い目」をメイクした俺達。そこから多摩川を鮭の遡上のように丸子橋(丸子の渡し)まで泳ぎ切り、中原街道へピットイン。この界隈、川崎市中原区といえば母の実家もあり、俺も数年武蔵中原に住んでいた事もあって、何かと縁のある場所であり、中原街道は当時の生活とは切り離せない道だったのですが、特に丸子橋から武蔵中原あたりまでは、割と有名な渋滞スポットのイメージ。なぜ渋滞してしまうのか?その答えは、街道が急にカギ状に折れ曲がる、いわゆるクランクがあるからである。ほぼ直角に左に折れ、数十メートル先でほぼ直角に右に折れる。見通し悪いし、減速しなきゃいけないし、路線バスだって通ってるしさ。歩道も整備できない狭い片側1車線のエリア。そりゃ渋滞するわよ。ええ。

 そんな中原街道、ここ川崎市中原区の地名に由来するものではない。「平塚編」でも触れたが、江戸を起点として平塚の中原御殿に向かう道だからである。この道はそもそも古代から存在する歴史ある道、武蔵国と相模国を結ぶ最短ルートだった。クランクの話に戻るが、このエリアに平塚の中原御殿と同じく、小杉御殿という将軍の宿舎のようなものを造営した関係で、防御のためにクランクが作られたのだそうな。御殿背後には多摩川、脇に西明寺なども御殿の守りとして役立っていたという。ほほう。

 小杉御殿を作る前、小杉陣屋ってのが置かれており、川崎エリアの新田と用水の開発を推し進めるための拠点として機能していたらしい。その辺は後ほど兄貴に述べてもらうとして、その後御殿も徳川秀忠によって陣屋の横に1608年に完成、1640年には再築も行われ、歴代将軍の鷹狩り後の休息の場となっていたそう。今じゃ人通りも少なめな住宅街ではあるが、当時のこの界隈(小杉村)は飯屋や宿屋などで繁盛し、大名・武士・町人・旅芸人などでにぎわう、川崎でもっとも活気のある場所だったようだ。へえー。だが、東海道が整備されていくと共に中原街道の利用は減少し、小杉御殿も1672年には廃止、川崎の中心地も川崎宿へと移動してゆくのだった。「遠い目」をメイク。

 がしかし2024年現在では、武蔵小杉は東横線、南武線、さらにJRの新駅も高架され、都心で住みたい街上位を毎年キープ。タワマンもニョキニョキと立ち並び、オシャレな街へと急変貌したこともあり、人口や交通量も増大する中、中原街道のクランクは「現代にはそぐわない」危険な場所となっているため、川崎市は中原街道の拡張工事に着手。クランクを通らずに直進できる道を建設しており、用地所得なども9割は終えているとのこと。まあ仕方ないよNE。でも、今までのクランクも、地域の生活道路として残されるらしいし、小杉御殿町、小杉陣屋町などの地名も存在するので、今後も訪れて「遠い目」をメイクしていく分には全く問題ないさ。そんな新旧が入り混じるこのエリア、クランク横の御殿跡地から小杉のタワマンを見上げ、最後の「遠い目」をメイクし、この場を後にするのだった。

■徳川家康が着手し人々を支え続けた「二ヶ領用水」

(by Mummy-D)

「遠い目をメイク」って何だよ? 連載9回目にして急に耳慣れない表現し始めるんじゃないよ馬鹿野郎。さて、武蔵小杉から我らはそのまま鮭のように多摩川をさらに遡上、ウソですフツーに南武線に乗って4キロ上流の宿河原駅へ。ここからは江戸期以来川崎を潤してきた「二ヶ領用水」を掘り下げていきます。

 皆さんの住む街の身近に、ちょっとした水路はないでしょうか? もしくはそれを暗渠化した遊歩道は? 整備が進んでいたり、手付かずだったり。いずれにせよ都市生活者にとってまさしく日々の潤いになっている存在なのではないでしょうか? それらは決してたまたまそこにあるわけではなく、何かのために、誰かの意思で、先人たちの弛まぬ努力によってそこにあるのだなあと、今回二ヶ領用水について調べていて思い知らされたのでありました。

 神君家康公の江戸入府(1590)に際し、最も優先されたのは水源の確保。多摩川水系の治水と新田開発を命じられたのは用水奉行小泉次大夫吉次でした。天文8年(1539)生まれで今川氏真、徳川家康に仕え元和9年(1624)に85歳で亡くなったっていうんだから、戦国の生き証人みたいな人です次大夫さん。この人の具申で多摩川右岸、稲毛領と川崎領に農業用水を供給した人工水路が二ヶ領用水なのであった。ちなみにその次大夫さんが拠点にしていたのが前述の小杉陣屋っす。

 慶長16年(1611)に14年の歳月をかけて完成したこの用水路は、我々が辿った宿河原堰取水口周辺の他にも川崎市内に網の目のように張り巡らされており、往時いかに水が大切であったか、そしてまさしくそのネットワークによって、現在で言うところの「川崎」という共同体概念が出来上がったことを物語ってくれます。しかし江戸中期には老朽化してしまったため、普請役田中休愚によって大規模な改修が行われ、水田はさらに増え続けたとのこと。

 ちなみにこの休愚さん、なんと我々の今回の旅の出発点、川崎宿本陣の名主さんで、あの大岡越前に見出され暴れん坊将軍吉宗に進言したってんだから、どんだけ優秀な人であったか!ちなみにちなみに次大夫さんの方は対岸、東京都側の六郷用水も手掛けていて、わたくしが住む周辺にも「次大夫堀公園」や「次大夫橋」など様々なスポットに今もその名を残しています。現在は丸子川と名を変えていますが、その周辺に暮らしているものとして、自分マジで胸熱ッス!涙。

 大正期にはまだ長閑な田園風景の中にあった二ヶ領用水も、昭和になると川崎市の工業化、軍需産業化によって工業用水の供給源としての役割を担わされることとなりました。その役目も終え、戦後の生活排水による水質汚染なども超えて、現在では上流を中心に整備が進み、多くは市民の憩いの散歩道になっています。都市部ではこれがあるかないかで本当周辺の住み心地変わるかんね! 我々は皆単なる近所の「小川」として認識してるけど、そこにはちゃーんと存在理由とドラマがあるんやねー、うんうん。いつも見ているありふれた景色の中にも「歴史人」への入り口、そこかしこにあるものよのう…そんなことを感じた、2024年真夏の川崎の旅であった。

 あ、宿河原周辺の二ヶ領用水散策路、登戸寄りに南武線の線路の真下をくぐるスポットあるんだけど、そこちょっとびっくりするほど線路近いんで必見です! 遠い目?いや、近い近い近い!!!