「きのこの山」考案者、92歳新元久さんは湾生。台湾好き主婦が見た世界平和とは

AI要約

台湾好きが集まる会の主催者が湾生の方々のお話を聞く機会を得て、平和を考えさせられる

湾生とは日本統治時代の台湾で生まれ、日本本土へ引き揚げた日本人を指す言葉であり、その歴史を学ぶ

きのこの山を考案した新元久さんのお話から、戦後の食糧難やお菓子の開発について知る

「きのこの山」考案者、92歳新元久さんは湾生。台湾好き主婦が見た世界平和とは

台湾が好き過ぎて、2022年に台湾好きが集まる会を立ち上げたロータスです。たまたまのご縁で、運よく湾生の方々のお話を聞かせていただく機会に恵まれました。ちょうど終戦記念日を迎える時期、世界の平和を改めて考えさせられました。

日本統治時代について勉強されている台湾に留学中の土山さんが主催される【湾生を囲む会in東京】の1回目と2回目に、微力ながらお手伝いをさせていただきました。

湾生とは、簡単に言えば台湾で出生した日本人を指します。

ーWikipedia 

湾生(わんせい)とは、日本統治時代の台湾で生まれ、第二次世界大戦後に日本本土へ引き揚げた日本人を指す言葉である。

1回目の講師は、あの! きのこの山を考案された新元久さん。

1931年(昭和6年)に台南の麻豆でお生まれになりました。麻豆は3月に行ったばかりでなんだか勝手にご縁を感じます。

麻豆代天府は当時はなかったそうです。「サトウキビ畑はまだありましたか」など少しお話ができました。

杖はついてらっしゃいますが、しっかりとした口調で当時のお話をしてくださります。

特筆すべきは甘党! 

お店のタピオカミルクティがお気に召されたようで、2回目も召し上がっておられてなんて味覚もお若いんだと感心しました。

戦後1年経って日本に引き上げ食糧難に見舞われました。台南では当たり前のようにあった砂糖もなく、その時のひもじさが後にお菓子の開発につながったそうです。

新元さんは引き上げの際はまだ学生、1番大切だったのは教科書や参考書。一生懸命持ち帰ったけれど、砂糖が全然なかった時代。参考書より砂糖の方が大切だったと気がついたそう。

お父様は台湾で羊羹を作ってもらい、それを持ち帰り日本のご家族にとても喜んでいただけたんだとか。

それにしてもきのこの山は感動です。会の終了後にきのこの山の箱にサインをしてもらう方がいらして、うらやましくなりました。