「あそびば」―――ただ話したい、誰かと会いたい、誰でもぽっとこれる、いってみようかな、すごしてみようかな、と思える場所を

AI要約

原田恵さんは福岡県出身で助産師を目指し、福岡の産科病院で働いていた。しかし、お産に対する考え方が変わり、国境なき医師団に参加するため海外協力隊に参加しモロッコに派遣される。

モロッコの助産院で勤務する中で、お産の原点に出会う。一方で技術不足による死亡例も経験し、施設分娩の普及のため母親学級の普及に努める。

恵さんはフランス語を学んでいたが、モロッコではデリジャという方言が使われるため、母親学級のための冊子を作成し、普及を図る。自らが行動することで人々に影響を与えることを大切にする。

「あそびば」―――ただ話したい、誰かと会いたい、誰でもぽっとこれる、いってみようかな、すごしてみようかな、と思える場所を

高知県春野町の公民館に毎週水曜日、学校帰りの子どもたちや乳幼児とお母さんたちが20人ほどやってきます。ここでは、2024年2月から原田恵さんが「あそびば」を運営。しかし、この「あそびば」に行きつくまでにはいろいろな紆余曲折がありました。

福岡県出身の恵さんは、地域と関わりたいと思い「出産がゴールではなく、その後の生活や子育てを頑張れるような出産」「家庭や地域に関われるような職業」として助産師を目指していました。働いていたのは福岡でも有名な産科病院で、病棟や食事などの環境が素晴らしく、とてもきめ細やかな対応が評価されているところ。

日本ではお産がサービス重視になってきていた時代で「妊婦さんに寄り添っている」という意味では好きな職場でした。しかし「お産ってもっとシンプルなものなのでは?」と考えるようになり、お産が安全ではなかった時代も日本にあったはずと恵さんは思います。

その「原点が見たい」という考えが、国境なき医師団へ参加したいという思いになります。そのステップとして海外協力隊に参加、モロッコへ派遣されることに。派遣されたのは小さな地域の助産院でした。

そこに来る人たちは、自分の誕生日も覚えていない、字も書けない状態で、出生体重も100gきざみ(はかりも適当)、身長もだいたい50㎝、出生時間もだいたい15分刻みくらいで記録する環境。

それでも「生まれた赤ちゃんが元気であること」「活気があるかどうか」が一番大切で「細かすぎる数値や時間もそんなに重要ではない」というお産の原点に恵さんは出会います。

一方で、判断の遅れで亡くなる命もあり、技術の整った日本なら絶対に助かったであろう場面にも直面しました。緊急手術の必要性をうまく伝えられず、もどかしさを感じることもあったといいます。

モロッコの村落部では自宅分娩が多く、出血などによる妊産婦死亡率が高いため、施設分娩の促進を目的とした母親学級の普及が要請されていました。フランス語が広く使われている地域で、協力隊派遣前の研修ではフランス語を学んだ恵さん。

しかし実際には、学校に通えていない女性が話す言葉は公用語であるアラビア語・ベルベル語の方言、デリジャのみで、フランス語ではありませんでした。字が読めない人も多いため、得意な絵を描いて、そこにデリジャの文字を添えて冊子を作ったといいます。

そこで首都の保健省に訪問したうえで持参し、これを使ってほしいと直談判すると「いいじゃないか」と増刷してもらえることに。この冊子の中身について「まずは同僚に必要性を分かってもらうことを目指し、相手の文化や歴史、スタイルを尊重しながら、イスラムの文化へも積極的に関わるようにしました」と、信頼関係を築いていったと恵さんは振り返ります。

恵さんが一番大切にしていることは「人として寄り添う」ということ。しかし、それを他人に教えるのは難しいのが現実で「一言伝えてガラッと変えるのは簡単なことではない」といいます。

「だからこそ自分の行動で示し見てもらい『何かやってるな』と感じてもらうことで『自分もやってみようか』と思ってもらうこと」そんな風に恵さんは活動を進めていきました。

そんな活動の中、先輩隊員であった夫となる浩多さんと出会います。家族愛にあふれた浩多さんとの出会いが、恵さん自身の両親との関わり方にも大きく影響を与え、わだかまりのあった両親のことを理解できるようになりました。

「人生最大の幸運は夫、浩多さんに出会えたこと」という恵さん。帰国後浩多さんと結婚し、浩多さんのふるさとである高知県春野町で暮らし始め、そこで5人の子どもたちに恵まれます。