「小学校教師には英語を教える資格が無い」!? 小学校でしかできない外国語教育の意義とは

AI要約

神奈川県小学校教師の成田潤也氏が、小学校教師の英語教育への過小評価に反対する理由を述べる。

小学校教師の英語教育に対する批判に対し、小学校独自のアプローチで英語教育を推進すべきだと提案する。

児童の発達段階に合わせて、英語教育を行うためには、自然な課題や活動を通じて英語に触れさせる工夫が必要である。

「小学校教師には英語を教える資格が無い」!? 小学校でしかできない外国語教育の意義とは

インターネットを中心に「小学校教師のほとんどは英語を話せない」などのコメントがあります。そんなコメントに真っ向から反対するのが、神奈川県小学校教師の成田潤也氏。

著書『マンガでサポート! 他教科コラボのChaChat英語:英語が苦手!?な担任でも創れる小学校外国語活動』より、その理由を解説します。

第2回記事〈「英語を学ぶ必然性はほぼない」新時代の外国語教育とは? 英語が苦手な教師でもできる英語教育〉より続く。

英語教育となると、小学校教師の仕事が過小評価される傾向にあります。最近では、小学校教師に集中的に大学の特別講座を受講させて、中学校英語の教員免許を取得させるといった取り組みが行われています。

それ自体は大変素晴らしいことだと思うのですが、一方で、インターネットを中心に「小学校教師のほとんどは、中学校英語の教員免許を持っていない」と煽るような記事が散見されたり、記事に対して「その通り」「やはり、英語は専門のスキルを持った者が教えるべき」というコメントが多くついたり、という状況があります。

その論調に従うなら、私は小学校教員免許以外には中学校・高校の英語の教員免許しか取得していませんから、「小学校で英語を教える資格はあるが、その他の教科を教える資格は無い」ということになります。

この手の批判は「小学生に英語スキルを効率良く指導するなら」という前提が透けて見えるので、その前提自体が的はずれだと考える私にとっては、詭弁以外の何物でもありません。どうも英語教育だけは特別に問題視し、「学校教育や教師が諸悪の根源」というストーリーに仕立て上げたい人が多いようですね(やれやれ)。

ここで提案するのは、そうした世間の「小学校教師は英語を教える資格が無い批判」へのカウンター。

小学校教師が英語教師のマネをするのではなく、小学校教師ならではの発想で、小学校発の英語教育を作り上げていきましょう、という提案です。

私は、小学校段階において英語の運用スキル向上を直線的に目指す指導には懐疑的な立場です。目標とする語彙や表現を掲げ、それを正確に言えたかどうかを評価するような発想で授業づくりをするのは、小学生の発達段階からすると違和感があります。

2年生算数の「かけ算」の導入で、いきなり「5の段の九九は、ゴイチガゴ、ゴニジュウ……といいます。覚えましょう」なんて授業、絶対しないですよね。

九九の唱え方を暗記するだけなら効率の良い方法かもしれませんが、これでは、九九が言えたところでその意味を体験的に理解したことにはなりません。

試しに、上記の九九を、英語の語彙や表現に置き換えてみてください。その違和感に気づけるでしょう。

小学校児童を対象とした授業づくりで重要なのは、「児童が、指導する内容に自然と触れられるような課題や活動の提示の工夫」です。外国語活動づくりも同様で、英語だからといって特別な方法を講じる必要はありません。