女性摂政を支えたファティマという女──はたして悪女だったのか?

AI要約

遊牧民社会の女性の重要性や役割に注目が集まっている中、モンゴル帝国における女性たちの活躍や運命に焦点を当てた記事。

トゥレゲネ・ガトンやファティマなどの女性たちが帝国政治を担い、孤独や権力闘争に立ち向かう姿が描かれている。

ピリピンやコンギラート部など多様な出自を持つ女性たちが活躍し、文化や言語の違いを超えて連携していた。

女性摂政を支えたファティマという女──はたして悪女だったのか?

近年、遊牧民の世界は定住農耕とはまったく別の論理に基づく社会システムであって、そこに優劣はありえないことを多くの人が理解しはじめており、なかでも女性の役割がきわめて大きかったことが注目されています。

7月新刊『モンゴル帝国』では、 チンギス・ハーンの征服とその子どもたちによる勢力拡大がどのようになされていったか、武力だけに頼らない婚姻政策の実態、また権力闘争の舞台裏を描き出しています。

今回は、コミック『天幕のジャードゥーガル』(トマトスープ著/秋田書店)の主人公でもある、トゥレゲネ・ガトンとファティマ、2人の女性の活躍と過酷な運命に迫ります。

(※本記事は『モンゴル帝国』 から抜粋・編集したものです。)

中央ユーラシアの各地に根を下ろしつつあった新生の大帝国の政治を誰が運営したか? それは以下の女性たちである。

トゥレゲネ・ガトン(在摂政位1242~1246)

オグル・ガイミシュ(在摂政位1248~1251)

ソルカクタニ・ベキ(~1251/1252)

オルキナ・ガトン(~1266)

トゥレゲネ・ガトンはオゴダイ・ハーンの第六皇后である。オグル・ガイミシュはオゴダイの息子にして3代目の大ハーンであるグユクの妃。

トゥレゲネ・ガトンにはおそらくふつうの男には想像できないほどの孤独感があっただろう。チンギス・ハーンの母親ウゲルンや第一夫人ボルテ后とはちがい、東方の有力部族コンギラート部のような実家が彼女にはない。

孤独なトゥレゲネ・ガトンはひとりの女性に胸襟を開き、万事相談するようになった。ファティマである。

ファティマはイスラームのシーア派的背景を持つ女性である、と歴史学者の杉山正明は述べている(『モンゴル帝国の興亡』上巻、1996 )。預言者ムハンマドの娘の名で、その夫はアリーである。アリーの子孫だけをイスラームの正統的な指導者と見なすのが、シーア派である。十二イマーム派やイスマーイール派などである。なかでもとくにイスマーイール派は10世紀にエジプトでファティマ朝を打ち立てた。その名も預言者の娘に因んだ歴史観のあらわれである。

13世紀にモンゴルが勃興したとき、イランの地にもシーア派は絶大な権力と影響力を保持していた。ハラ・ホリムのファティマはサマルカンド出身で、アリーの後裔を自称していたシャラという人物と親しかったと伝えられていることから、あらためてシーア派的な色彩を帯びた人物だと推測できよう。

ジュヴァイニによると、ファティマはアリ・アル・リザのモスクが陥落した際に捕虜としてハラ・ホリムに連れてこられた、という。『集史』は彼女をホラズム帝国のトスという都市の出身だと伝えている。ある研究者は、チンギス・ハーンが中央アジアのマシュハードを落としたときに捕虜となり、孤り身でハラ・ホリムまで連れてこられた、としている。最初はムスリムたちの市場で生計を立てていたが、トゥレゲネ・ガトンに見初められて側近となり、宮廷オルド内で活躍した人物となった。

ジュヴァイニがファティマをガトンすなわち妃と呼んでいることから見れば、トゥレゲネ・ガトンの側近中の側近に昇進していたことがわかる。モンゴルでは、ガトンとはもっぱら黄金家族の正夫人にのみ用いられていた尊称だとされていたからである。一方、テュルク系集団内では、ガトンは「貴婦人」の意味でも使われる。したがって、ファティマは独身をとおしたらしいが、ガトンと呼ばれるほど権勢を振るっていたのはまちがいない。彼女はトゥレゲネ・ガトンに助言をし、帝国の人事と税制、それに外交関係に積極的にかかわっていたのである。

では、ファティマとトゥレゲネ・ガトンは何語で意思疎通していたのだろうか。テュルク系のナイマン部出身のトゥレゲネ・ガトンは当然、テュルク語ができたはずである。ファティマはペルシャ人かテュルク系かは不明であるが、中央ユーラシアには古くから多民族が混住しており、たいていの人びとは複数の言語を同時に操る。ファティマも例外ではないはずである。