『光る君へ』紫式部の娘・藤原賢子、女房三十六歌仙の一人・大弐三位として活躍、貴公子に愛されキャリアを極める

AI要約

藤原賢子は紫式部の娘であり、幼くして父を失う悲劇を経験した。

賢子は歌人としても活躍し、『大弐三位集』を残し、女房三十六歌仙の一人として名を馳せた。

恋愛関係にあった貴公子たちや、その歌の一部などを通じて、賢子の生涯には多くの興味深いエピソードが残されている。

 大河ドラマ『光る君へ』第27回「宿縁の命」では、まひろ(紫式部)が、娘を出産した。今回は、この紫式部の娘・大弐三位藤原賢子を取り上げたい。

 文=鷹橋 忍 

■ 幼くして、父を失う

 紫式部の娘・藤原賢子は、長保元年(999)頃に生まれたと推定されている。

 紫式部の生年は諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、数えで27歳のときの子だ。

 南北朝時代に編纂された諸家の系譜集『尊卑分脈』には、佐々木蔵之介が演じる藤原宣孝の娘として、その名が記されている(母は紫式部と記載あり)。

 その宣孝は長保3年(1001)4月25日、賢子が数えで3歳くらいの時に、亡くなった。

 母・紫式部は、夫の宣孝の死を契機に『源氏物語』を書き始めたともいわれ(諸説あり)、寛弘2年(1005)か寛弘3年(1006)の年末から、塩野瑛久が演じる一条天皇の中宮・見上愛が演じる彰子(藤原道長と黒木華が演じる源倫子の娘)に出仕した。

 宣孝の死から4年、あるいは5年後、紫式部が33歳か34歳ぐらい、賢子が7歳か8歳ぐらいの時のことである。

 賢子もまた長じると、母と同じく彰子に仕えた。

 彰子に出仕した時期は、賢子が14~15歳の頃(南波浩校注『紫式部集』)、長和6年(1017)頃(上原作和『紫式部伝――平安王朝百年を見つめた生涯』)など諸説あり、定まっていない。

 賢子は、岸谷五朗が演じる祖父の藤原為時が、左少弁を務め、越後守に任じられたことから、「越後の弁」と称されたという(南波浩校注『紫式部集』)。 

■ 女房三十六歌仙の一人

 彰子に仕えるようになった賢子は、歌人としても活躍し、高く評価された。

 家集『大弐三位集(藤三位集)』を残し、母・紫式部とともに女房三十六歌仙の一人に数えられている。

 『後拾遺和歌集』巻第十二 恋二に所出する賢子(作者名は大弐三位)の歌、

 有馬山 ゐなのささ原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

 (有馬山に近くの猪名の笹原で風がそよそよと音をたてるように、私はけっしてあなたのことを忘れません)

 は百人一首に選ばれており、ご存じの方も多いだろう。

■ 貴公子たちに愛される

 賢子は、貴公子たちとの恋愛でも知られる。

 『後拾遺和歌集』巻第十四 恋四には、道長と瀧内公美が演じる源明子の子・藤原頼宗へ送った

 こひしさのうきにまきるゝものならはまたふたゝびと君を見ましや

 (恋しさが憂さ辛さによって紛れるなら、二度とあなたにお逢いしましょうか。紛れないからこそ、またお逢いしたいのです)現代語訳 校注 久保田淳 平田喜信『後拾遺和歌集 新日本古典文学大系8』より

 という歌があり、頼宗と恋愛関係にあったという。

 また、町田啓太が演じる藤原公任の子・藤原定頼とは、定頼が蔵人に在任していた寛仁2~3年(1018~1019)頃に、親交があったと推定されている(森本元子『定頼集全訳 私家集全釈叢書6』)。

 益岡徹が演じた源雅信の孫・源朝任(倫子の異母兄・源時中の子)とも、治安2~3年(1022~1023)頃、交際していたと考えられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』所収 栗山圭子「第十三章 天皇乳母としての大弐三位――母を超えた娘」)。

 賢子の恋は、まだまだ続く。