MLBの挑戦者たち~メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡 Vol.20 多田野数人/七転び八起きの苦労人

AI要約

多田野数人は大学時代のスキャンダルから日本プロ野球の道を断たれ、MLBの入団テストを受けることとなった。

苦労の末にクリーブランド・インディアンズでメジャーデビューを果たすも、定着はできず、独立リーグで現役を引退。

18勝20敗2ホールドの記録を残し、ユニークな投球フォームやスローボールで話題を集めたが、逆境を乗り越え続けた野球人生を送った。

MLBの挑戦者たち~メジャーリーグに挑んだ全日本人選手の足跡  Vol.20 多田野数人/七転び八起きの苦労人

若い頃のたった一度の過ちにより、その後の野球人生が数奇なものになったのが多田野数人だ。高校時代から本格派右腕として注目され、立教大学に進学。春のリーグ戦で勝利を挙げるなど、1年生にしてエース格の活躍を見せる。その後も順調に成長した多田野は、大学野球屈指の好投手として、’02年のドラフト会議でも上位指名を確実視されていた。

ところが、大学卒業を前にしてスキャンダルが発覚。ドラフト会議では各球団が“故障”を理由に指名回避する事態となった。この件については、MLBに渡った後に釈明会見を開いており、日米の各球団やチームメイトからも理解を得ている。いまさらこの話を蒸し返す意味もなく、これ以上詳しく触れることはしない。

ともかく、そうした事情で日本プロ野球への道が閉ざされた多田野は、MLBの入団テストを受けることを決意。コロラド・ロッキーズ、アリゾナ・ダイヤモンドバックスからは獲得を見送られたものの、クリーブランド・インディアンズ(当時)の入団テストに合格し、マイナー契約を勝ちとる。もちろんスタートは底辺の1Aから。このあたり、同じく若くして渡米したマック鈴木の境遇とも重なるところだ。多田野は当時の様子を「毎日が必死。つねに100m走を全力で走っているような状態でした」と語っている。

スタートこそ苦労した多田野だったが、1Aから2A、2Aから3Aと、とんとん拍子に昇格を果たす。2年目の開幕を3Aで迎えると、4月にはついにメジャー昇格。マック鈴木に続き、日本プロ野球を経ずにメジャーリーガーとなった2人目の日本人となった。7月2日のシンシナティ・レッズ戦でメジャー初先発、初勝利。14試合に登板(4先発)し、1勝1敗、防御率4.65という成績だった。

しかし翌’05年は1試合の登板にとどまり、メジャー定着の道は遠かった。’06年4月に戦力外通告を受けると、オークランド・アスレチックスとマイナー契約を締結。2A、3Aからメジャーに挑戦し続けるも、多田野に朗報が届くことはなく、’07年オフに解雇された。

この年の11月、NPBのドラフト会議にかかり、北海道日本ハム・ファイターズから1巡目指名を受ける。プロとしてアメリカ野球の経験しかない多田野は、最初のシーズンで7つのボークを犯すなど、日本野球への適応に苦労したそうだ。「普通の日本人選手にはわからない感覚でしょう」と多田野は笑って語っている。

日本ハムには7年間在籍し、18勝20敗2ホールド。’09年には9回2アウトまでノーヒットノーランの快投を見せるも、次打者に安打を浴びて大記録はならず。それでもプロとして最初で最後の完封勝利を挙げている。ユニークな経歴だけでなく、手投げに近い独特なフォームや、球速60キロ台の超スローボールなどでも話題を集めた多田野だったが、’17年に独立リーグで現役を引退。絶望を力に変え、何度も這いあがってきた、ど根性の野球人生だった。