【何かを封印している?】京都に鎮座する謎の「三柱鳥居」が意味するもの

AI要約

木嶋社は、京都太秦にある古社で、史料上は701年に初出。境内には養蚕神社もあり、太秦の土地柄との関連も指摘されている。

木嶋社の祭神には「天照御魂」という言葉が含まれるが、他の神社にも同様の表記があり、太陽神としての信仰が広がっていた可能性がある。

木嶋社の祭神に関しては史料や神名帳に記載があり、アマテル系統の太陽神としてのアマテルが祀られていた可能性が示唆されている。

 京都というと、遷都後の平安時代以降の仏教・寺院というイメージが強いかもしれない。だが、遷都前からの歴史の古い神社もじつは多く、これらは平安時代以降のイメージに隠されてきた。意外にも、京都市周縁部には、平安京成立以前から祀られていた古社が多い。ここでは京都・太秦の地に立つ異形の「三柱鳥居」について取り上げる。

*この記事は、『京都古社に隠された歴史の謎』(古川順弘著、ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。

 京都・太秦にある大酒神社から東に10分ほど歩くと、木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社の鳥居前に出る。現在の祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とほか4神。社名の「木嶋」は社地一帯の古地名で、そのため「木嶋社」を通称とする。現在は宅地に囲まれているが、かつては木嶋という名にふさわしく、周囲には巨樹が繁茂し、境内にある「元糺(もとただす)」と呼ばれる池の水量も非常に豊かだったという。境内社に養蚕(こかい)神社があるため、「蚕の社」という通称もある。

 創祀年代は不詳だが、史料上の初出は『続日本紀』大宝元年(701)4月3日条である。「木嶋神の神稲をこれ以後、中臣氏に給する」というのがその内容である。元糺の池には四季を問わず豊かな水が湧き出たためか、平安時代には祈雨の神としてとくに信仰された。

 そして、史料上の裏付けはないものの、太秦という土地柄から、木嶋社はかなり古くから秦氏によって祀られていたのではないか、太秦の秦氏の氏神ではないのか、といったことがよく言われてきた。境内社の養蚕神社が秦氏の職掌である養蚕・織物の祖神を祀っていることも、秦氏との深い関わりを想像させる。

 この木嶋社には、2つの大きな「謎」がある。ひとつ目は、社名に含まれる「天照御魂」をめぐる謎である。

 神社の世界では、「天照」と書けばアマテラスと読まれるのが普通で、要するに伊勢神宮に祀られる太陽神で天皇家の祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)のことをさす。しかし、木嶋社ではこれをあえてアマテルと読ませていて、天照大神とは別の神格を祀っていることをにおわせている。

 じつは、畿内には、木嶋社以外にも、社名に「天照=アマテル」という言葉を含む式内社が点在している。丹波の天照玉命(あまてるたまのみこと)神社(京都府福知山市今安)、大和の鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町八尾)、他田坐天照御魂神社(奈良県桜井市太田)、摂津の新屋坐天照御魂神社(大阪府茨木市西福井)などがそれである。

 これらの神社の本来の祭神をめぐってはいろいろと議論があるが、アマテル=太陽の神格化、すなわち古代日本人が素朴に信仰していた太陽神としてのアマテルが祀られていたのではないかという説が注目される。つまり、アマテルとは、皇祖神アマテラスが形成される以前に日本各地で信仰されていた太陽神であり、プレ・アマテラスとでも言うべき神ではないか、という見方だ。

 ここで木嶋社に話を戻すと、現在の祭神は先に記したように、天之御中主神ほか合わせて5神だが、歴史的にみると祭神名は必ずしも一貫していない。大正14年(1925)刊行の『特選神名牒』は祭神を天照国照天火明命(あまてるくにてるあまのほのあかりのみこと)とし、享保18年(1733)完成の出口延経『神名帳考証』は「天日神命(あまのひのかみのみこと)か」としている。いずれも、アマテルの系譜につながるローカルな太陽神である。こうしたことからすれば、木嶋社の本来の祭神は、その社名に含まれる「天照御魂」、すなわち素朴な太陽神としてのアマテルであったと考えるのが適当ではないだろうか。

 そして、木嶋社が秦氏の氏神であったというのなら、そのアマテルは渡来人秦氏が奉じてきた太陽神であり、渡来系の信仰に由来する独特の神格を有していたと考えることができよう。