123便に乗り込み帰らぬ人となった坂本九 「最後の曲」は10代にも歌い継がれる「名曲」となった――

AI要約

坂本九さんの死から39年が経ったが、未だに彼の曲「心の瞳」は広く合唱されている。

ファンハウスに移籍し、新たなシングルを制作する中で、試行錯誤を続けていた。

坂本九さん自身も曲作りに励み、「親父」という歌を制作していた。

永六輔からのアドバイスにより、坂本九は司会業をやめて歌手に専念する覚悟を固める。

覆面歌手として活動する姿をテレビで公開し、本格的に歌手としての活動を再開した。

坂本九は自身の笑顔を大切にし、悲しい歌でも笑顔で歌うことを信条としていた。

坂本九はお母さんからの教えを大切にし、積極的に社会貢献活動に取り組んでいた。

福祉活動や募金活動に積極的に関わり、微笑みや手話の歌で人々に希望を与えていた。

彼の人柄や音楽活動は未だに多くの人々に愛され続けている。

123便に乗り込み帰らぬ人となった坂本九 「最後の曲」は10代にも歌い継がれる「名曲」となった――

 まだ43歳だった歌手の坂本九さんが8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなってから、今年で39年。

 事故の3カ月前にリリースされた「心の瞳」は、テレビで本人が一度も歌うことのないまま、いまなお合唱曲として広く歌い継がれている。この曲は、坂本九さんがレコード会社ファンハウスへの移籍第1弾シングルとして制作された。ファンハウス創業者で「心の瞳」をともに制作した新田和長氏の著作『アーティスト伝説 レコーディングスタジオで出会った天才たち』(新潮社)から、名曲の誕生秘話と坂本九さんの愛すべき素顔を紹介する。

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 1980年頃から、僕は九ちゃんのレコード制作を任されるようになっていたが、彼の多様な才能をよく知っているがゆえに、何が彼の才能をいちばん発揮させる音楽なのか、試行錯誤を続けていた。

 そんなある晩、柿の木坂の自宅を訪ねると彼は2階の仕事部屋で、ギターを弾きながら、オリジナルの新曲を聴かせてくれた。実は彼も曲作りに励んでいたのだ。九ちゃんがこのときに聴かせてくれたのは「親父」という歌だった。生前は酒の飲み方までいちいち説教するうるさい親父だったが、今になってそれらの言葉を噛み締めて亡き親父を偲ぶ歌だった。

「親父」は、シングルとして1982年に発売された。テーマもメッセージもはっきりした情のある歌だったので一定の評価は得られたものの、これこそシンガーソングライター坂本九のつくったみんなの歌というほどまでには評価されなかった。一体、何が坂本九にふさわしいのか、僕たちは暗中模索を続けたが答えはなかなか出なかった。

 1983年、原点回帰しようと思い立った僕たちは永六輔さんを訪ねた。永さんは思わぬ言葉を吐いた。九ちゃんに司会業をすっぱりやめるように迫ったのだ。九ちゃんは、毎年、武道館で開催されるヤマハ音楽振興会主催の世界歌謡祭の司会を続けていた。世界的なヒットを授かった自分の役割でもあり、恩返しと考えていたからだ。テレビでも多くの番組で司会をしていたが、永さんはこう厳しく迫った。

「歌手に徹するなら、司会者のような仕事をしては駄目だ。人を紹介したり褒めたりするのは、歌手のすることではない!  歌手を続けるのなら、坂本九という名前や過去の実績に頼らず、名前も顔も隠して、たとえデパートの紙袋を被(かぶ)ってでも、歌う覚悟があるか!」

 永さんは本気で叫んでいたから、ふたりともうつむいて聞くしかなかった。歌手を続けるなら司会など止めて歌うことに専念しろというのは正論だった。歌手坂本九を取り戻してもらいたいという永さんならではの愛情からくる厳しさだったのだろう。そのためには名前も顔も伏せて歌一本で勝負する覚悟があるのか、といった比喩だったに違いない。

 しかし、九ちゃんはその言葉を額面通りに受け入れた。数ヶ月後、XQS(エクスキューズ)という名前の覆面歌手になり、目と口に穴を空けた紙袋をすっぽり被って踊りながら歌うプロモーション映像までがテレビから流れた。

 僕はここまでしなくてもいいのにと思いながら、機転の利かなかった自分が情けなかった。

「さびしい時は自分よりもっとさびしい人のために働きなさい」

 九ちゃんはお母さんのこの教えを胸に笑顔を心がけてきたという。そうやって自分自身を励ましてきたのかもしれない。

「僕がニコニコすると、相手もニコニコ微笑んでくれる。それがいいんです」

 そう言って、にっこり笑った。

「悲しい歌を歌うときも笑顔で歌うと、聴いている人が希望を感じてくれます」

「あゆみの箱」の募金活動には積極的に取り組んだ。福祉活動にも本腰をいれて力を尽くした。手話のための歌をつくったり、体の不自由な人たちに語りかけ、微笑みかけた。