家賃は月4875円、銭湯代は98円…その日暮らしの江戸っ子が唯一お金をかけた「一生に一度の大イベント」

AI要約

江戸時代、人口100万人を超えた大都市・江戸。町人たちは風呂好きで、1Kの家賃は4875円だった。家には炭や蠟燭を使用し、大家は長屋の管理を担当した。

城の周囲には武士を住まわせ、城を中心に武家地、寺社地、町人地の3つに分けられた。表店や裏店、共同の井戸や便所、ごみ溜めがあった。

大家は家賃の取り立てや維持管理を行い、店子の身元引き受けから仲人、仲裁までを担当。基本給は入居時の礼金や家賃の3~5%、糞尿の売買代金だった。

江戸時代、人口100万人を超えた大都市・江戸。風呂場のない狭い長屋に暮らす町人たちは、毎日湯屋に通うほどの風呂好きだったという。歴史学者・磯田道史さん監修の『新版 江戸の家計簿』(宝島社)より、一部を紹介する――。

■1K、9平米の家賃は月4875円だった

 徳川家康は江戸の町を、城を中心に武家地、寺社地、町人地の3つに分けた。城の周囲にはそれを守る武士を住まわせ、この武家地を取り囲むように寺や神社を配置した。

 町人地は今の中央区、台東区、千代田区の一部だった。京間60間(約120m)四方の町割がされ、町割の通りに面した町屋(長屋)を表店、裏に並んだ町屋を裏店と呼んだ。表通りには大店や一戸建ての商家が軒を連ね、路地を入ったところには裏店があった。

多くが棟割長屋で、最小のものが、間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)、面積約9.72m2

の、いわゆる「九尺二間の棟割長屋」である。路地に面した3尺(約90㎝)幅の腰高障子が入り口で、入ると土間があり、水がめや流し、かまどがある。奥には4畳余りの居間兼寝室という1K。家賃は現代感覚で算出すると、ひと月わずか4875円ほど。 また、当時の照明はというと、行灯か蠟燭、暖や熱は主に炭を使った。明和9(1772)年の炭の平均価格は1俵で銀4.1匁、すなわち現代価格で約4300円。蠟燭はピンからキリまであるが、高級な会津蠟は4.7貫目で約10万5000円にもなった。

■長屋を管理する大家さんは親同然

 路地の奥には共同の井戸、便所、ごみ溜めがあった。

 長屋を管理するのは、地主や家持(家主)の代理人、大家だった。落語にもよく登場する大家は、家賃の取り立て、長屋の維持管理のほか、店子の身元引き受け人、旅行の際の手形申請、仲人、また、もめ事の仲裁、さまざまな相談役まで引き受け、まさに親同然だった。

 大家の基本給は入居時の礼金や家賃の3~5%、そして共同便所の糞尿の売買代金だったという。