ストリップと「歌舞伎や能」が同じ!?...「本番」までする踊り子達の「芸能意識」とは?

AI要約

昭和のストリップの女王、一条さゆりの生涯とその時代背景について記録された『踊る菩薩』。彼女の踊りへの熱意や芸人としての意識、そしてストリップの多面性について探る。

一条の芸は芸能であり、客の視点に焦点を当てている。司法の判断や社会の価値観との齟齬について考察。

一条さゆりは反権力の象徴として祭り上げられ、司法の判決を受ける。そして、ストリップの「わいせつ」に対する論争を橋本は疑問視する。

ストリップと「歌舞伎や能」が同じ!?...「本番」までする踊り子達の「芸能意識」とは?

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第66回

『「陰部の露出は100%アートです」…公然わいせつ罪で《懲役》を下した最高裁「ポルノ裁判」に元千葉大教授が異論』より続く

ストリッパーのなかには、とても熱心にまじめに踊りに取り組む女性がいる。AV女優が進出し、急速に「素人」化したストリップにあっても、ひたすら踊りを極めようと努力するストリッパーがいた。

「そこには間違いなく、芸人としての意識がやどります。ストリップは歌舞伎や能のような社会的な評価は受けていない。だから踊り子さんは声高に語ろうとはしません。でも、彼女たちとの付き合いを通して、芸人としての意識に気付きました」

だから、ストリップは「性風俗の老舗」ではない、と橋本は考えている。

「むしろ、大衆芸能の領域に通じる水脈が隠されています」

客を舞台に上げて、「本番」をする生板(まな板)ショーでさえ、橋本は芸能であると言う。

「舞台の上にある限り、芸、アートです。客がどういう気持ちでそれを観ているのかは知りません。ただ、女性は客に見られていることを意識しています。異物をかかえたアートなのです」

橋本の考えでは、一条の「特出し」は紛れもない芸能だった。一条が意識するのは客の目のみだ。

では、その芸能を「わいせつ」と考えるべきだろうか。

「どこまでがわいせつ、どこからがそうでないか。この線引きはできません。ストリップはいろんな側面を持っていますから」

一条の芸を司法が「わいせつ」と判断し、彼女を実刑にした点については司法よりも、むしろ彼女を、「反権力の象徴」に祭り上げた者たちに罪がある。橋本はそう考えていた。