「戦時死亡宣告」を拒みつづけた母の願いと息子の望郷――『脱露』で浮かび上がる「シベリア民間人抑留者」の記録
1946~1948年にかけて、南樺太で様々な理由からソ連軍に突然逮捕され囚人としてシベリアのラーゲリ(強制収容所)に連行された人々は、過酷な労働を強いられた末に刑期があけてもソ連に残留させられた。
彼らが“発見”されたのは、ソ連崩壊後のことだった。
前編に続き、シベリアの強制収容所に収監された民間人の生活と葛藤を綴ったノンフィクションライター石村博子さんの著書からは、元ソ連兵将校の運転手として入所した佐藤弘さんとその母の悲しい物語が明かされる。
1946~1948年にかけて、南樺太で様々な理由からソ連軍に突然逮捕され囚人としてシベリアのラーゲリ(強制収容所)に連行された人々は、過酷な労働を強いられた末に刑期があけてもソ連に残留させられた。
彼らが“発見”されたのは、ソ連崩壊後のことだった。
前編『あの日、樺太はソ連に占領され彼らは強制収容所へと連れていかれた…『脱露』を願う「シベリア民間人抑留者」とその家族たちの格闘の記録』につづき、ノンフィクションライターの石村博子さんが上梓した『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(KADOKAWA)から、一部を抜粋して歴史のクレバスに落とされた名もなき民間人の足跡をお届けする。
以下は、終戦後にソ連兵将校の運転手と1946年に運転事故を起こし収容所に入れられた佐藤弘さんとその母の悲劇の物語である。
佐藤弘 略年譜
1927年 12月12日 北海道夕張郡由仁村に生まれる
1939年頃 一家で樺太に渡る、西内淵で食堂経営
1942年 落合商工学校卒業後、内淵炭鉱の保安係に就職
1945年 8月~ 敗戦、真岡の王子製紙の工場へ配属
ソ連兵将校の車の運転手になる
1946年 5月1日 運転事故を起こし、将校の怒りを買う
逮捕~裁判~トゥガチ収容所へ
1950年 5月 刑期を終え、カンスクへ
1953年 シューラと結婚、2歳になるナディアという連れ子と暮らす
1954年 ソ連国籍取得
1964年 7月14日 未帰還者に関する特措法により戦時死亡宣告がなされる
1977年頃 妻シューラ死去
2月24日 戦時死亡宣告同意により除籍
1990年 カンスクでの生存・住所が判明
1992年 9月 初の一時帰国実現
1993年 3月
「カンスク日本人会」発足、会長に就任、後に「シベリア日本人会」
シベリア各地に残留する同胞の消息調査に取り組む
2015年 6月6日 自宅前で転倒し頭部を強打したことが原因で死去、87歳