生活保護のスティグマ 解消への道

AI要約

生活保護利用者に対する偏見や差別の存在を感じる理由と、生活保護基準引き下げ裁判に対する社会の反応について述べられている。

生活保護スティグマの解消やナショナルミニマムについての認識の重要性が示され、裁判での判決に対するネガティブな報道に対する理解を呼びかけている。

裁判所が生活保護基準の意義を強調し、社会全体で支える必要性を訴えるコメントが取り上げられ、生活保護受給者と社会全体が共に「上向きのベクトル」を目指す重要性が語られている。

生活保護のスティグマ 解消への道

立教大学大学院社会デザイン研究科客員教授の稲葉剛氏は毎日新聞政治プレミアに寄稿した。「私が生活保護利用者に対する偏見や差別の存在を強く感じるのは、生活保護基準引き下げの違法性をめぐって争われている裁判に対するネガティブな反応を見る時だ」と語った。

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 「生活保護に至る前の生活困窮者を早急に把握し、個々の状態に応じた適切な支援を行うとともに、憲法25条の理念に基づき、生活保護を必要としている区民に対し、適切かつ迅速に保護を行えるようにすることが重要です。また、生活保護に対する偏見や差別意識といったスティグマの解消に向けた施策を講じる必要があります」

 ◇生活保護のスティグマ

 今年3月、東京都中野区が策定した「中野区地域福祉計画」(2024~28年度)には、生活保護のスティグマ(ネガティブなレッテル貼り)解消をめざす施策を実施するとの方針が今回、初めて盛り込まれた。社会福祉法によって自治体の「努力義務」とされている「地域福祉計画」は、現在、全国の8割以上の自治体で策定されているが、生活保護にまつわるスティグマの解消に触れた計画は他に例がないのではないかと思われる。

 民間の生活困窮者支援の現場では、生活保護の利用者に対する世間の冷たいまなざしを気にして、制度の利用をためらってしまう人が多いことが長年、大きな課題になってきた。私自身、病気やけがにより緊急に医療にかかる必要がありながらも、「生活保護だけは嫌だ」と制度利用に拒否感を示す人の説得に苦労した経験は数えきれないほどある。

 厚生労働省は新型コロナウイルス禍の経済的影響により生活困窮に至る人が増加したことを踏まえ、20年12月、公式サイト上に「生活保護を申請したい方へ」という特設ページを開設。ネット交流サービス(SNS)も活用して、「生活保護の申請は国民の権利です。生活保護を必要とする可能性はどなたにもあるものですので、ためらわずにご相談ください」との発信をおこなっている。

 こうした周知活動自体は評価できるものだが、国には中野区の計画を見習って、人々が制度利用を「ためらう」要因となっているスティグマの解消にまで踏み込んだ取り組みを期待したい。

 ◇ナショナルミニマム

 私が生活保護利用者に対する偏見や差別の存在を強く感じるのは、生活保護基準引き下げの違法性をめぐって争われている裁判に対するネガティブな反応を見る時である。

 第2次安倍晋三政権のもと、13年から15年にかけて生活保護基準の過去最大の引き下げ(平均6.5%、最大10%)が実施された。この引き下げが憲法及び生活保護法に違反するとして、生活保護の利用者が原告となり、減額処分の取り消しなどを求める行政訴訟が全国各地で行われている。

 「いのちのとりで裁判」と名付けられた一連の行政訴訟は全国で31の訴訟が係争中で、これまで地裁レベルでは28の判決が出されたが、その結果は17勝11敗と原告側が大きく勝ち越している。

 17勝目の原告勝訴となったのは、今年6月13日に東京地方裁判所民事第3部(篠田賢治裁判長)で出た判決だ。

 判決で篠田裁判長は、国が基準額に物価の下落を反映させる「デフレ調整」をおこなった際、生活保護利用者が実際には購入することが少ないテレビ、パソコンなどの電化製品価格の下落率が過大に反映される指数を用いたことを指摘。基準を引き下げた厚労相の判断の過程及び手続きに過誤、欠落があり、生活保護法に違反するとして、減額を取り消す判決を言い渡した。

 この判決のニュースが報じられた時も、ネット上では生活保護の基準が国民年金の満額より「高い」ことをもって原告を批判する書き込みや、「一生懸命働いて税金を納めている人たちのことを忘れないでほしい」という著名人のコメントが散見された。

 しかし、裁判のニュースのたびに出てくる批判の多くは、生活保護基準のナショナルミニマム(最低生活費)としての性格を理解していないものだ。

 ナショナルミニマムとは、日本社会で「健康で文化的な最低限度の生活」を営むためのボトムラインを示した金額である。この基準は現在、生活保護を利用している人の既得権を示す金額と見られがちだが、実際にはそのラインに達していない年金生活者やワーキングプアの人も含め、すべての人の生活水準を下支えする役割を果たしている。そのため、このラインが恣意(しい)的に下げられれば、社会全体が地盤沈下することになるのだ。このことは「いのちのとりで裁判」の原告や支援者の間で、「土台沈めばみんなが沈む」との言葉で語られている。

 ◇「下向きではなく上向きのベクトルを」

 「いのちのとりで裁判」に対する世間の目を意識してのことだろう。篠田裁判長は法廷で判決を言い渡した後に異例の発言をおこなった。原告弁護団によると、その内容は以下の3点であった。

 (1)生活保護の不正受給などの問題は、仮にあったとしても、生活扶助の水準には無関係であり、基準改定の理由とはならない。

 (2)相対的貧困率、貧困の連鎖など、多岐にわたる社会的問題が存在するが、これらの解決は司法ができることではない。本裁判所は、本件改定の一部に、統計などの客観的数値との合理的関連性がないと認定し、主文の判断をしたものであり、これら社会的問題とは直接関係しない。

 (3)とはいえ、これらの問題点を解決し、未来に希望をもつため、下向きではなく上向きのベクトルを、生活保護受給者だけでなく全員が持ってほしい。それが国力にもつながる。行政機関の役割というだけでなく、原告、傍聴席のみなさん含む民間の人々の活躍に期待する。

 「下向きではなく上向きのベクトルを」との言葉を使って、篠田裁判長は社会の「土台」を支える生活保護基準の意義を社会全体で共有し、「土台」を底上げするための議論を始めることを社会に促したのだ。

 原告の一人、55歳の男性に、この判決についての感想を聞いたところ、「まだ第1ラウンドを突破したに過ぎないが、地裁で勝てて本当に良かった。原告の中には、亡くなられた方や体調を崩して裁判所に来られなくなった方もいるので、吉報を届けたかった」と語ってくれた。

 また、男性は判決後の裁判長のコメントについても「自分も生活保護の当事者としてネットで発信をして、たたかれた経験があるので、裁判長の言葉には励まされた。せっかくのコメントをマスコミがほとんど報じてくれなかったのは残念だが、これから高裁、最高裁と続いていくので、自分たち、支援者皆さんで連携して頑張っていきたい」と決意を新たにしていた。

 社会の「土台」を支え、下に向いたベクトルを「上向き」に転換させるための努力を原告だけに任せてはならない。私たち一人ひとりの課題としてできることを考えたい。