日本兵に「何度も脅された」 激戦地、糸満市での体験語る 88歳の仲間さん・沖縄慰霊の日

AI要約

沖縄戦末期の悲劇を振り返る88歳の元住民が、日本兵に脅され続けた体験を明かす。

日本兵による住居を追われたり、自決を迫られたりと、沖縄戦の過酷さを語る。

仲間さんは平和を切望し、政府に対して平和への取り組みを訴える。

日本兵に「何度も脅された」 激戦地、糸満市での体験語る 88歳の仲間さん・沖縄慰霊の日

 太平洋戦争末期の沖縄戦で、最後まで激戦が続いた沖縄県糸満市。

 23日の沖縄慰霊の日を前に、同市の仲間進栄さん(88)が79年前を振り返り、「日本兵に何度も脅された」と語った。

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。仲間さんの母や妹らは本島北部へと避難した。仲間さんは当時9歳。祖父母と共に最南端の糸満市に残ったが、戦火を避けるため、家を出て近くの斜面に横穴を掘ってつくった「ガマ」で生活するようになった。

 そんな生活が続いたある日、日本兵がガマに入ってきた。「出て行け。ここは私たちが使う」。銃を構えて言い放ち、仲間さんらを追い出した。

 住むところを失った仲間さんらが再びガマをつくると、別の日本兵が「ここは危ない。別のガマに逃げた方がいい」と言ってきた。言葉に従ってガマを出た後、様子を見に戻ると、複数の日本兵が中で談笑していた。

 日本兵にガマを追われたのはこれに限らない。戦況が厳しくなると、沖縄本島南部に逃げ込む日本兵が増え、何度も脅され、だまされた。最後は海辺の鍾乳洞に逃げ込んだという。

 ある夜、鍾乳洞の外で激しい爆発音がした。外に出てみると、すぐそばに迫った米戦艦が近くに潜む日本兵を攻撃していた。

 ふんどしを白旗代わりにして降参しよう。そう思った矢先、日本兵が「自決しよう。捕まったらひどいことをされるぞ」と銃を渡してきた。信用できるか―。何度もだまされた仲間さんらは制止を振り切って白旗を掲げ、米軍に保護されたという。

 つらい記憶を振り返り、「二度とあんな悲劇は見たくない」と語った仲間さん。「政府には、手段は問わないから、とにかく平和でいれるよう取り組んでほしい」と切に願った。