迫る敵を前に、城門を「あえて全開」に… 「徳川家康」の行動から学べること
徳川家康が武田信玄に敗れ、浜松城へ逃げ帰る際、武田軍の追撃から自らを守るために「空城の計」を用いたエピソード。
『兵法三十六計』の知識を活かし、城を全開にして篝火を焚いて武田軍の到着を待ち構え、逆に攻め入らせない戦略を成功させた家康。
絶体絶命の状況から巧妙な策略を用いてピンチを切り抜けた家康の決断により、武田軍の攻撃を撃退し、浜松城の危機を脱した。
「偉大なる先人」たちの実際にあったエピソードから、ピンチを切り抜けるアイデアを探る。「危機」が「死」に直結する過酷な戦国時代において、2人の有名武将が見せた驚きの振る舞いをご紹介しよう。
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(前後編の後編)
※以下、『一流は何を考えているのか』(西澤泰生著、Gakken)の内容より、一部を抜粋/編集してお伝えする。
徳川家康が武田信玄と戦ってコテンパンにやられた「三方ヶ原の戦い」のときの話です。
命からがら浜松城まで逃げ帰った家康でしたが、武田軍の追っ手は城のすぐ近くまで迫っていました。もし、このまま城を攻められたら降伏するしかない状況です。
(ヒント:その行動により、武田軍は城攻めをやめて兵を引きました)
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(答え)城の城門を全開にして、武田軍の到着を待った。
これは、中国の兵法書『兵法三十六計』のなかに出てくる「空城の計」と呼ばれる戦
術です。
『兵法三十六計』とは、兵法における戦術を6系統・36種類に分類した書物。ちなみに最後の36番目には、「勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避けよ」とあり、これが「三十六計逃げるに如しかず」という言葉の語源になっています。
この本を読んでいた家康は、浜松城へ逃げ帰ると、すべての城門を開いて篝火(かがりび)を焚き、武田軍が到着するのを待ち構えました。
家康を追ってきた武田軍は、その城の様子を見て、「これは何かの罠に違いない」と城に攻め入ることをやめ、そのまま兵を引いたのでした。
ちなみに家康は、この「空城の計」の用意を終えると、湯漬けを食べ、疲労からか、そのままイビキをかいて眠り込んだといわれています。「打つべき手は打ったから、あとは運を天に任せた……」という感じでしょうか。
彼の生涯における最大の危機といわれたこの敗戦を、家康はこうして乗り切ったのです。