城跡散策は断念!! 上杉同士の死闘の舞台となった「七沢城」へ

AI要約

室町時代、鎌倉公方と関東管領の対立が関東戦国時代の幕開けとなり、七沢城址がその舞台となった。

上杉憲忠が七里ヶ浜の戦いで敗退し、七沢山に要害を構え、七沢城が初めて登場する。

1948年の山内上杉顕定と扇谷上杉定正の戦いで、定正が奇跡的な勝利を収め、七沢城を守る。

城跡散策は断念!! 上杉同士の死闘の舞台となった「七沢城」へ

 バイクで神奈川県厚木市七沢にある「七沢城址」を訪れました。「七沢城」の歴史は、城址碑から少し離れたところにある「水汲沢(みずくさわ:城内の将兵が使用する飲料水を汲み出したところ)」の解説板に詳しく記載されていました。それによると、室町時代の1450年、鎌倉公方(かまくらくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)の近臣たちと、関東管領山内(かんとうかんれいやまのうち)上杉憲忠(うえすぎのりただ)の重臣たちとの間に争いが起き、これが関東戦国時代の幕開けとされています。簡単に言えば、京都の将軍の座を狙う鎌倉公方と、それを阻止する上杉家の対立ということになります。

 室町幕府初代将軍、足利尊氏(あしかがたかうじ)の子、基氏(ともうじ)の家系が世襲してきた役職が鎌倉公方(室町幕府が関東を支配、統治するために設置した鎌倉府の長官)で、その補佐役として置かれた関東管領は、足利尊氏の母方の親戚、上杉家が代々世襲していたのでした。

 上杉方に攻められた成氏がいったん江ノ島へ逃れた後に、鎌倉の七里ヶ浜の戦いで上杉方を敗退させます。その上杉方の憲忠が、ここ七沢山に要害を構えたとのこと。これが文献の中に初めて登場した「七沢城」にまつわる伝記です。

 その後、1948年に山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の間で不和が高じ、山内上杉顕定(あきさだ)が、当時扇谷上杉定正(さだまさ)が所有していた「七沢城」方面に襲来します。

 定正の弟の朝昌(ともまさ)が守っていた「七沢城」は落城し、それに対して定正は200騎ほどで現在の埼玉県川越市から一昼夜で駆けつけ、「七沢城」近くの南実蒔原(みなみさねまきはら)で顕定の大軍を打ち破るという奇跡的な勝利を挙げたそうです。

 この一連の戦で朝昌は戦死したと伝えられていたそうですが、実は生存していて、後に藤沢市の「大庭城」を守備していた、という説もあります。