戦後革命を起こした1949年の名車 22選 欧米の「未来」を描いたクルマたち

AI要約

1949年は、新しい繁栄を迎えようとするムードと共に、革新的な変化が世界中で見られた年だった。

欧米の自動車メーカーは、豊かなクルマを求める市場に応えるべく、革新的なモデルを次々と投入した。

アラードやオースチンなどの自動車メーカーは、競技用車両や革新的なデザインを取り入れて時代にマッチしたクルマを生み出した。

戦後革命を起こした1949年の名車 22選 欧米の「未来」を描いたクルマたち

1949年の自動車シーンは、前年にビッグネームが相次いで発表されたことから、期待薄な年だったかもしれない。

しかし実際には、フェラーリ初のロードカーが登場したり、各社でまったく新しいデザインが採用されたりと、世界中で革命的な変化が見られた年だった。

それは、戦争時代を乗り越え、新たな繁栄を享受しようとする人々のムードと呼応していた。

今回は1949年に登場した素晴らしいクルマの中から、欧米で販売されたものを中心に、特に興味深い22台を紹介しよう。

ロンドン生まれのシドニー・アラード氏は、米国製V8エンジンを英国製のシャシーとボディにマッチさせた最初の1人だ。多くの点で先見の明があったと言える。

この年、自身の名を冠したアラードという自動車メーカーをさらに拡大するべく、2ドア・ボディのP1を投入する。フォードやマーキュリーから流用した荒々しいエンジンなど、その競技用車両としての血統は明らかだった。

当時の欧米は、戦時中の貧しい雰囲気が薄れ始める中、より華やかなクルマを求めつつあった。アラード氏はその世相を読み、P1に競技性を持たせて魅力を高めた。モンテカルロ・ラリーの歴史において、自らの名を冠したクルマで優勝した唯一の人物となっている。

英国は第二次世界大戦で勝利した側とはいえ、莫大な借金を抱えて無一文になってしまった。このため、戦後間もない時期には「輸出か、死ぬか」という気風が高まり、多くの英国車メーカーが収益性の高い米国市場への参入を試みた。

オースチンが開発したのはA90アトランティックで、最初はコンバーチブル、次にクーペを発売した。残念ながら、米国ではエンジンが小さすぎ、英国では価格が高すぎるとして商業的には失敗した。

ダブルの「A」バッジや三つ目のフロントランプなどのディテールは、今見ると魅力的な時代物であるが、当時は販売にほとんど貢献しなかった。

合計8000台ほどが生産されたが、現在では世界でわずか60台ほどしか残っていないと推定される。しかし、アトランティックのエンジンとトランスミッションは1954年に登場したオースチン・ヒーレー100/4に受け継がれた。