「その日、私は母を捨てました」医師・タレントおおたわ史絵さんが振り返る“母と過ごした苦難の日々” 母の孤独死の後も続く葛藤

AI要約

おおたわ史絵さんは母との複雑な葛藤を振り返り、幼少期から母の薬物依存、過干渉、暴力に苦しんだ苦悩を語る。

父の他界後、母の依存が増し、遺産を巡る嘘を広める母に限界を感じ、母を捨てる決断をする。

その後、母との関係を透明人間として過ごし、母からの連絡を徹底的に無視する精神力を持ち、徐々に母との連絡は途絶えていく。

「その日、私は母を捨てました」医師・タレントおおたわ史絵さんが振り返る“母と過ごした苦難の日々” 母の孤独死の後も続く葛藤

「あまりの憤りと憎悪で、このままでは母を殺めてしまうと思いました」。そう母への葛藤を振り返るのは、著書『母を捨てるということ』がある総合内科専門医、法務省矯正局医師のおおたわ史絵さん。知性派タレントとしても活躍する彼女だが、その半生は壮絶だった。

 おおたわさんは医師の父と看護師の母の間に生まれた。父の2番目の妻だった母は、娘をエリートとして育て上げるため教育に力を入れ、彼女が幼い頃からピアノやバイオリン、英会話などの英才教育を施した。

 だが習いごとの成果が出ないと、激高して身の回りの物を投げつけるのは日常茶飯事で、「手を出しなさい! お灸をすえるから!」とたばこの火を押し付けようとすることも。母が爆発するたびにおおたわさんは「ごめんなさい。ゆるして」と泣いて謝った。

 それでいて自立を嫌い、「バレエが習いたい」と言えば、「太っているから似合わないよ」と娘の心を傷つけるような言い方で反対。小学校高学年になりおしゃれを意識したおおたわさんが髪形を整えると、「こんなのお前らしくない」とはさみで前髪をザクザクと切り直した。

 中学生の頃、神様がひとつだけ願いを叶えてくれるとしたら何を願うか──友人に聞かれたおおたわさんはこう真剣に答えた。

「心から安心できる場所がひとつ欲しい」

 問題を複雑にしたのが母の「薬物依存」だった。

「私が思春期の頃から深刻化していきました。もともとは腹膜炎の痛みを和らげるため医師である父から鎮痛剤の注射を受けていましたが、使っているうちにどんどん依存し、薬物が手に入らないと暴力を振るうようになりました」(おおたわさん・以下同)

 2004年に父が他界すると母は娘に依存するようになった。頻繁に電話をかけてきて、対応せずにいると「転んだ」などと嘘をついて何度も救急車を呼び、「娘が夫の遺産を全部奪い取った」と事実無根の話を親戚中に触れ回る。

 母の言動に大きなストレスを感じていたとき、疲労が限界に達したおおたわさんは、「ねえ私のお金ちょうだい」という母の一言に堪忍袋の緒が切れた。

「いい加減にして!」と怒鳴り、書類ケースを母の肩先に叩きつけた。ふらふらとよろける母の姿に、娘は激しく動揺した。

「このままでは母を殺めてしまうと思いました。自分が壊れそうで、憤りと憎悪で母を傷つける寸前でした。それならば心を鬼にして、母から目を背けようと決めました。何をされても何を言われても、徹底的に知らぬふりをしよう……。その日、私は母を捨てました」

 以降、母の前では透明人間になり、すれ違っても誰もいないかのように振る舞った。嫌みを言われても聞こえないふりをして、着信も無視し続けた。

「母からの電話を無視して、なるべく顔を合わさないようにするのは並々ならぬ精神力が必要でした。でも、あのときの私にはその方法しか見つかりませんでした。母は極度の“かまってちゃん”だから怒ったり問題行動を起こしましたが、諦めがついたのか、年を重ねて体力や気力が衰えたのか徐々に連絡は途絶えていきました」