役職者でも「アルバイト扱い」される中国の「厳しい現実」…ある日、ピタリと止まる中国企業

AI要約

中国は、読みにくい時代であるがますます「ふしぎな国」になっていく

『ふしぎな中国』に紹介されている新語・流行語・隠語は中国社会の本質を掴む貴重な情報である

日本人と中国人のビジネス文化や考え方の違い、特に「自己と社会の関係性」の違いが際立っている

役職者でも「アルバイト扱い」される中国の「厳しい現実」…ある日、ピタリと止まる中国企業

 中国は、「ふしぎな国」である。

 いまほど、中国が読みにくい時代はなく、かつ、今後ますます「ふしぎな国」になっていくであろう中国。

 そんな中、『ふしぎな中国』に紹介されている新語・流行語・隠語は、中国社会の本質を掴む貴重な「生情報」であり、中国を知る必読書だ。

 ※本記事は2022年10月に刊行された近藤大介『ふしぎな中国』から抜粋・編集したものです。

 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」

 私は10年ほど前まで、北京で3年間、日系企業の副総経理(副社長)をしていた。オフィスに行く途中に坂道があって、毎朝その坂を登るたびに、夏目漱石の『草枕』の冒頭部分を口ずさんでいたものだ。ただし「人の世」を「中国の世」に置き換えてだが。

 そもそも日系企業の中国駐在員というのは、通常、日本や海外で数多くのビジネス経験を積んでから送り込まれる。当時すでに中国というのは、世界ビジネスの中心地であり、野球で言うなら大リーグだった。

 欧米企業もアジア企業も「エース投手」や「ホームラン王」を送り込んでいたし、当の中国企業のビジネスパーソンたちも、米欧でMBAを取得した逸材が集結していた。

 ところが私の場合、それまで東京で記者をしていた。ビジネスの契約書を交わすどころか、契約書というものを目にしたことさえなかった。そんな私がなぜ北京に送り込まれたかと言えば、会社の国際ビジネス部門の人材が枯渇しており、誰か中国語ができる社員はいないかと、約1000人いる社内を探し回ったら、たまたま私が目に留まったのだ。

 だが、さすがにビジネス未経験の男に現地法人の総経理(社長)を任せるわけにはいかないという判断で、副総経理を拝命した。といっても、総経理は東京の本社にいたので、私が現地代表であり、会社のカネもハンコも管理していた。ちなみに私以外の社員は全員、中国人で、会社の公用語も中国語なら、取引先の会社もすべて中国企業だった。

 そんな環境下で中国ビジネスの最前線に飛び込んで、数ヵ月も経つと、一つの発見をした。それは「海洋民族」である日本人と「大陸民族」である中国人は、共に黄色人種で、漢字文化圏で、コメを主食とし、いささかの儒教精神を有していることを除けば、他に共通点がほとんどないことだった。「日中は一衣帯水」と言うが、発想や行動様式などは、地球を逆に4万㎞回ってようやく辿り着くほどの距離感があるのだ。

 とりわけ際立った違いを見せるのが、「自己(我)と社会との関係性」である。例えば、一般に日本人が会社に求めるものは、生活の安定と自己実現である。つまり安定した収入を得る代わりに、会社の一部となって自己実現を図っていくということだ。

 そこでは協調性や一体性が求められ、会社の決裁システムも基本的にボトムアップ方式(案件を下から上に積み上げていき、最後に取締役会で承認される方式)である。終身雇用と年功序列が重視され、何年も勤めているうちに愛社精神や滅私奉公の精神が涵養されていく。

 一方、中国人が会社に求めるのは、一にも二にも高い給料だ。他にもあるとしたら、次のステップアップに応用できるノウハウや人脈の取得である。あくまでも「我(ウォー)」という絶対的存在があって、我が今日たまたま所属する会社に通っているという発想なのだ。

 そのため、給料を3割アップしてくれる別の会社が見つかれば、何の未練もなく転職していく。また、どんなに年末で多忙を極めようが、有給休暇の未消化分は、きっちり取得して翌年を迎える。

 そうした「割り切り方」は、「老板(ラオバン)」と呼ばれる経営者(董事長=会長・総経理)の側も同様である。社員100人の会社なら、常に30人くらいの人員募集をかけている。「老板」が気に入らなければ、即刻クビにしたり降格したりするからだ。

 クビ切りの乱発を防ぐため、2008年に労働契約法が施行されたが、あまり効果を上げていなかった。

 「老板」が社員に求めるのは、短期的な仕事の成果と、自分への忠誠心である。社内では、IT能力が高くて使いやすい若手社員を、どんどん出世させる。社歴や年齢など無関係だ。ちなみに中国のビジネス界は、完全な男女平等社会である。

 そこでは「愛社精神」など死語に等しいし、持っている社員がいるとすれば「老板」だけだ。かつ「老板」と社員との間は、一般に「就業規則」によってのみ繋がっている。そのため私は、東京の本社では「就業規則」など目を通したこともなかったが、北京の現地法人では全105条を丸暗記して、日々社員たちと相対していた。

 そんな中、取引先の中国企業の社員たちと親しくなって、会食したりすると、彼らはよく自虐的な言葉を吐いていた。

 「我只是個打(ウォージーシーガダー)工人(ゴンレン)」

 日本語に訳せば、「オレなんかただのバイト君さ」。中国企業では主要な権限は「老板」一人に集中し、徹底したトップダウン方式なので、正社員や役職者であっても、アルバイトのような扱いを受けているという意味だ。「打工人」には非雇用者という広義の意味もあるが、彼らが使っていたのは「アルバイト」である。

 この「打工人」に悩まされたことは、一度や二度ではなかった。私は「日中ビジネスの罠」と呼んでいたほどだ。

 例えば、ある中国の会社と取引したいとする。私はその会社に電話し、用件を告げる。すると多くは、総経理秘書室に回され、「ではいついつお越し下さい」となる。指定された日時に行くと、豪華な総経理応接室に通され、いきなり「老板」との面談となる。

 面談を始めて、30分経っても「老板」が退出しなければ、ほぼ私の勝利である。「鶴の一声」で関連部署の社員たちがズラリと総経理応接室に集められ、「では後は、彼らと詳細を詰めてほしい。できるだけ早期に契約書を交わそう」と言われて、「老板」とがっちり握手。文字通り即断即決で、晴れて契約へ向けて「GO!」である。

 だが、ここから地獄が待っている。関連部署の社員たちは、自分を「打工人」としか思っていないので、責任感に欠け、行動が鈍いのだ。「会社の利益になっても自分の利益にはならないこと」に対するモチベーションが湧かないのである。彼らがごくたまに迅速な行動を見せたかと思えば、自分の親族や友人の会社に利益を誘導しようとしたりする。

 その間、日本の本社からは、「あれはどうなったか?」「いつまでに分かるのか?」などと、矢のような催促が来る。だが中国企業は、半年で部署の過半数が辞めるくらい入れ替わりが激しい。おまけにある日突然、辞めるため、日本企業のような次の担当者への引き継ぎなど皆無である。現場は常に大混乱だ。

 そのうち、もう一つの「激震」が走る。中国企業の動きが、ある日ピタリと止まるのだ。「御社との協業に向けた手続きなんて、進めてましたっけ?」という感じだ。

 これを最初に喰らった時は、何が起こったのか理解不能だった。私が担当者にしつこく迫ると、「そんなに言うなら『老板』に直接言って下さい」と諫められた。そこで「老板」の携帯電話にかけると、電話に出ないか、出ても「いま忙しい」とブツリと切られる。

 仕方がないからアポなしで、総経理室に向かう。すると「その件なら、韓国企業と進めることにした」と、「老板」はそっけなく答えたのだ。中国企業というのは、実に魑魅魍魎の伏魔殿だということを思い知らされたものだ。

 それだけに、契約書を交わすところまで持ち込めた時は、感慨もひとしおである。私は大小合わせて300件くらいの契約に立ち会ったが、金額の多寡によらず、どの契約書も自分の子供のように愛おしかった。

 ただ契約書を交わしたからといって、安心はできない。中国人は「契約書を順守する」というより、「時々刻々変化する実情に合わせて契約書を変えていく」という発想だからだ。

 あれから10年が経つが、最近気掛かりなのは、当時よりも中国人の「打工人」意識がさらに増していることだ。それだけ中国が不景気になったということでもある。会社からいつクビを切られるか知れないため、ますます社員の責任感が希薄になっているのだ。

 ついには「工具人(ゴンジュイレン)」なる新語まで生まれた。「工具」は道具のことで、「会社の道具である人」という意味だ。不景気で巷に失業者が溢れているから、「老板」は「いくらでも代わりが雇える」と思って、社員を「道具」のように扱うのである。

 とかく「中国の世」は住みにくい。