「フランス革命は行き過ぎだった」…近年、革命の評価が批判に変わってきた理由

AI要約

フランス革命の評価が変化しており、行き過ぎた運動として批判される傾向がある。

ルイ16世やマリー・アントワネットの評価も再考され、従来のイメージとは異なる側面が見直されている。

フランス革命は前近代社会から近代社会への転換点として捉えられてきたが、最近は異なる視点からの評価が進んでいる。

「フランス革命は行き過ぎだった」…近年、革命の評価が批判に変わってきた理由

パリオリンピック開会式の「マリー・アントワネット生首演出」が議論を巻き起こしている。フランス人にとって、フランス革命とはいったいどんな位置づけなのか?

​じつは近年、「あの革命は行き過ぎていた」という批判がなされている。革命の評価が変化した背景を探る。

【本記事は、『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集したものです。】

「詩的レアリスム」の巨匠ルネ・クレール監督が1932年に発表した映画“Quatorze juillet”(7月14日)は、革命記念日の7月14日をタイトルにした作品ですが、日本では「巴里祭(ぱりさい/ぱりまつり)」というタイトルで公開されました。パリの下町を舞台に花売り娘とタクシー運転手の恋が抒情的に描かれた名作です。

ただ、原題は「革命記念日」「国祭日」を表す日附で、革命を祝うのはパリだけではありません。この日、パリではシャンゼリゼ大通りを軍隊が行進し、大統領が閲兵するほか、上空を飛行機部隊が整然と飛ぶ軍事演習さながらの光景が繰り広げられますが、地方では場所によって、昼間は鼓笛隊の行進があり、夜も更けてようやく暗くなる11時過ぎ頃から花火大会が催されます。

1789年7月14日、権力の象徴的存在だったパリのバスチーユ監獄を民衆が襲撃します。一般に、これをきっかけにフランス革命が勃発したとされること、以後しばらく記念祭が挙行されたことから、この日が革命記念日とされるようになりました。

フランス革命と言えば、国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが斬首されたことが有名です。フランス歴代の多くの国王が死ぬまで、パリ以外の、ロワール川沿いの城館やヴェルサイユ宮殿で大半を過ごしたのと比べて、ルイ16世の場合は最初はともかく、とくに最期がパリと深く結びついています。

前の章で触れたように、ヴェルサイユ宮殿からパリの中心部のチュイルリー宮殿に移され、ヴァレンヌ逃亡事件以後は、民衆の軽蔑と憎しみを買い、タンプル塔に幽閉され、そこから直接現在のコンコルド広場に据えられた断頭台へ運ばれた、というだけで、ルイ16世とパリとの関わりは強く感じられます。

そういうなかで、ルイ16世は錠前作りと狩猟だけにうつつを抜かす愚昧な王だったという印象をお持ちの方は少なくないと思います。しかし、2005年に刊行されたジャン=クリスチャン・プティフィス著『ルイ十六世』(邦訳は2008年に上下巻で刊行)に代表される最近の研究では、ルイ16世は科学や哲学にも深い教養を持ち、農奴制を廃し、プロテスタントとユダヤ人の同化政策を進めるなどした英明な君主で、外交面でもアメリカ独立戦争に多大な影響を与える等、優れた啓蒙専制君主たりえた王だったとも言われるようになりました。

ただ優柔不断なところがあり、自ら信じる道を遮二無二進むことはできなかったことが、古代さながら生け贄によって体制刷新を図ろうとした時代の欲するままに、悲劇的結末を呼び込んだというのです。

歴史上の人物だけではなく、大事件も解釈が変わることは珍しくありません。フランス革命を、前近代社会から近代社会へと脱皮する転回点として高く評価してきた時代はそろそろ終わりを迎え、近年は行き過ぎた運動として批判する傾向が強まっています。

【つづき「フランス革命の「本当のきっかけ」…じつは「革命記念日」7月14日バスティーユ襲撃とは別に起きていた」】