ワインや衣裳を馬車に積み込みすぎてパリ脱出ならず…マリー・アントワネットは「悲劇の王妃」だったのか?

AI要約

1755年に生まれたマリー・アントワネットは、政略結婚によりフランスの王妃となった。

若干14歳で結婚したマリーは、フランス語を習得する条件付きで王妃としての役割を果たした。

王室での生活や事件に巻き込まれつつも、マリーは愛したプチ・トリアノンで平穏を見つけた。

ワインや衣裳を馬車に積み込みすぎてパリ脱出ならず…マリー・アントワネットは「悲劇の王妃」だったのか?

2024年の夏、オリンピックの開催で注目されるフランス・パリ。「芸術の都」「花の都」「美食の街」などの異名をもつこの街は、長年世界中の人々の憧れの的となっている。そんなパリに傾倒して何度も訪れ、人生の大半を捧げてきた著者が、パリの歴史を独自の視点から物語る。

『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集して、パリオリンピック開催中の今こそ知っておきたいパリの歴史を紹介する。

少しなりともフランスに関心があるという学生に聞くと、とくに女性の場合、マリー・アントワネットが好きという答えが返ってくる確率は決して低くないと思います。恐らくは『ベルサイユのばら』の影響だと思いますが、たしかに原作も宝塚の舞台も素晴らしいので、そうした学生たちの気持ちはよくわかります。

ただ、歴史上の人物としてのマリー・アントワネットは必ずしも魅力的ではなかったようです。

ルイ15世がポーランドの元王女と結婚したように、ルイ16世が結婚した相手もフランス人ではありませんでした。当時はヨーロッパの王家では政略結婚を繰り返しながら、権力を増大して安定した基盤を作ることが重要視されていました。

マリー・アントワネット、ドイツ語名マリア・アントーニアは、1755年11月2日に、神聖ローマ帝国皇帝フランツ一世とオーストリア女大公マリア・テレジアの11女としてこの世に生を享けました。16人いた子どものうち、マリーは下に弟が1人いるだけでした。姉がそれだけ多かったことがマリーの運命に大きく関わってきます。

マリア・テレジアは最初、ルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンの三男だった(兄2人は早逝)ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)と、マリーの3つ年上の姉マリア・カロリーナとの結婚、すなわち、ブルボン家とハプスブルク家というヨーロッパ屈指の名家の政略結婚を画策します。

ところが、ナポリ王フェルディナンド4世との結婚を控えていたマリーの4歳年上の姉マリア・ヨーゼファが急逝し、代わりにマリア・カロリーナが急遽ナポリ王に嫁ぐことになりました。そこでマリア・テレジアが考えたのが、ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットとの結婚でした。

しかし、この結婚じたい、ルイ・オーギュストの父である王太子ルイ・フェルディナンと母のマリー・ジョゼフ・ド・サクス双方から反対されて暗礁に乗り上げてしまいます。

1765年、王太子ルイ・フェルディナンが死去。ルイ15世は孫のルイ・オーギュストとマリー・アントワネットとの政略結婚を進めようとします。ただし、条件がありました。それはマリー・アントワネットがフランス語を話せることでした。オルレアン司教の紹介で、ソルボンヌ大学博士のヴェルモンが家庭教師の役をしましたが、マリー・アントワネットはフランス語の会話を除けば、あまり熱心な生徒ではなかったようです。

1770年5月16日、王太子ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットの結婚式がヴェルサイユ宮殿で行われ、マリーはフランス王太子妃となります。まだ14歳の若さでした。ルイ15 世の寵姫デュ・バリー夫人とは犬猿の仲でしたが、先回りして言えば、1793 年、マリー・アントワネットが処刑されて二ヶ月もしないうちに、デュ・バリー夫人も断頭台の露と消えました。

1774年、ルイ15世が世を去り、王太子がルイ16世として即位し、マリー・アントワネットは王妃になりました。この19年後の1793年に処刑されるまでの間、無実の詐欺事件、いわゆる「首飾り事件」に巻き込まれたり、濫費の果てに「赤字夫人」と呼ばれたりしながらも、マリーはフランス宮廷で王妃として振る舞います。

ヴェルサイユ宮殿でマリーが愛したのは、プチ・トリアノンという離宮と英国式庭園でした。そこは今でも多くの観光客が訪れる名所になっています。