パリ五輪開会式「マリー・アントワネット生首演出」のコンシエルジュリーで「国王一家に実際に行われたこと」

AI要約

1792年、パリで始まったフランス革命により、マリー・アントワネットやルイ16世が幽閉され、処刑される悲劇が起こった。

タンプル塔は牢獄として使用され、要人の収監が主であり、革命後に解体された歴史ある建造物である。

革命広場(現在のコンコルド広場)は、ギロチンの処刑場となり、ルイ16世やマリー・アントワネットが処刑された場所である。

パリ五輪開会式「マリー・アントワネット生首演出」のコンシエルジュリーで「国王一家に実際に行われたこと」

2024年の夏、オリンピックの開催で注目されるフランス・パリ。「芸術の都」「花の都」「美食の街」などの異名をもつこの街は、長年世界中の人々の憧れの的となっている。そんなパリに傾倒して何度も訪れ、人生の大半を捧げてきた著者が、パリの歴史を独自の視点から物語る。

『物語 パリの歴史』(高遠 弘美著)より抜粋・編集して、パリオリンピック開催中の今こそ知っておきたいパリの歴史を紹介する。

1792年、虎視眈々とフランスを狙う諸外国と革命政府との戦争が始まります。民衆はマリー・アントワネットが敵側に情報を漏らしているのではないかと疑い、次章で記すように8月になって国王一家(国王、王妃、王太子、王女、王妹)をチュイルリー宮殿からタンプル塔に移し、幽閉します。

タンプル塔はもともとテンプル(タンプル)騎士団の中心的な修道院でしたが、ひときわ高い塔が建っていたためこの名前で呼ばれます。革命後は牢獄として使用され、とくに他の牢獄より出入りの管理が容易だったこともあって、要人の収監が主でした。マレー地区のピカソ美術館とレピュブリック広場を結ぶ線上のほぼ中間地点にありました。

1808年、この建物を嫌ったナポレオンによって解体されましたが、それまでは監獄として機能しており、1793年1月、ルイ16世はここから処刑場の革命広場(現在のコンコルド広場)に連れて行かれました。

同年8月2日、マリー・アントワネットはここからコンシエルジュリーへと移送されました。コンシエルジュリーに移されたマリーは、10月15日、死刑判決を受け、翌16日、夫と同様、革命広場で処刑されました。

(1748年、パリ市は現在のコンコルド広場の中央に、ルイ15世の騎馬像を据えて、公共の広場として整備することを決めました。「ルイ15世広場」と呼ばれることになる広場の整備を担当した建築家ガブリエルを支えたのがポンパドゥール夫人でした。この広場はフランス革命時、「革命広場」と名前が変わり、騎馬像が撤去されたばかりでなく、ギロチンの処刑場となり、ルイ16世やマリー・アントワネットもここで処刑されました。その後、1830年に「コンコルド〈融和〉広場」が正式名称となりました。1836年、エジプトから贈られたルクソールのオベリスクが整備された広場の中央に建てられ、ほぼ今の姿になりました。)