「誰やねん」ウィキペディアに没年月日のない短命監督を「掘り起こす」旅…「虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督」を書いた理由

AI要約

著書「虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督」で、ライター・村瀬秀信さんが阪神の第8代監督であった岸一郎を追いかける物語を描いている。

岸一郎はプロ野球経験ゼロで指揮官となった異色の監督であり、猛反発に遭い開幕からわずか33試合で史上最短の退陣を経験した。

村瀬さんは岸一郎の謎に迫り、独自の取材でその人間性と経歴を探る中で、奇想天外な展開や舞台が大陸へと広がる物語を紡いでいる。

「誰やねん」ウィキペディアに没年月日のない短命監督を「掘り起こす」旅…「虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督」を書いた理由

 ライター・村瀬秀信さん(49)の著書「虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督」(集英社・税込み1980円)が野球ファンを中心に力作として人気を博している。阪神の第8代監督を務めながら、選手たちの猛反発にあって開幕からわずか33試合という史上最短で退陣した岸一郎を追いかけたエンタメ・ノンフィクションだ。なぜ村瀬さんはここまで、岸に夢中になってしまったのか。(加藤弘士)

 男として生まれてきたからには、誰でも一度は夢見るプロ野球監督という座。その華々しい就任会見で過去、報道陣から「誰やねん」との声が上がった男は、おそらく岸一郎、一人だけだろう。太平洋戦争での敗戦からわずか10年後の1955年。プロ野球経験ゼロながら阪神の指揮官に就任した60歳について、村瀬さんは異様な執念を燃やし、320ページにまとめた。

 「『岸一郎』を最初に意識したのは2011年の雑誌『Number』の監督特集号でした。名将のインタビューが載る間の、箸休めページで『こんな監督もいまっせ』みたいな記事を書くことになって。ヘンな監督を探そうとするうちに、『こんな人がいたんだ。本当かよ!?』というのが最初です」

 「ただ、後で人に言われたのが『近藤唯之さんが書いていたよ』と。近藤さんの著作を全部読み直してみたら、『新監督列伝』の一番最初のページが権藤博さんで、その枕として岸さんを書いていた。近藤唯之-権藤博-岸一郎というつながりを考えた時、オレが書くべくして書くのかなというのがありました」

 名著「止めたバットでツーベース」(双葉社)の第1章で伝説のスポーツライター・近藤唯之さんを描き、熱狂的なベイスターズファンとして1998年、横浜を日本一に導いた名将・権藤博へ敬意を抱く村瀬さん。神に導かれるように、「岸一郎」を探す旅が始まった。しかし、岸はウィキペディアで没年月日が記されていなかったほど謎の人物。資料も限られており、取材は困難を極めた。

 「独自のチーム改革案を書いた手紙がオーナーの目にとまって、監督になれちゃう。阪神ファンにとってはシンデレラのような、夢の話です。シンデレラおじいちゃんですよ。でも主力選手から総スカンを受けてしまう。休養理由が「痔ろうの悪化」っていうのも凄い(笑)。初めは『面白い監督がいるな』と思って、資料を探るんですけど、すぐ底が見えちゃう。国会図書館とかに本格的に探しに行って、新聞記事とかを見ていくんですけど、それ以上のことができない。結局、肝心なことは、人に会って聞かないと分かりませんから」

 村瀬さんは確固たる手がかりもない中、岸の生誕の地で、晩年、農業をして過ごした敦賀へと向かう。村瀬さんは歩き回る。奇跡的に数々の証言を得ることで、物語は急展開を迎える。事実は小説より奇なり。極上のミステリーを味わうかのようなワクワクとドキドキが止まらなくなる。戦前の満州など、舞台は大陸へと広がりを見せていく。数多の商業誌で培った「村瀬節」とも言うべき人情味にあふれた文体で、「岸一郎」という人間の本質に迫っていく。

 「岸さんはサウスポーとして、市岡忠男さんらと一緒に早稲田で野球をしていたスタープレーヤーだったんです。日本野球史にも残っていなきゃおかしいぐらいの方でした。日本人離れしたプレースタイルで米国遠征にも行って、カリフォルニア大に留学しようとしていたという話でしたから。世が世なら、アメリカでイチローより先に、『ICHIRO』になっていたかもしれないんじゃないかと」

 投手としての才能が「沢村栄治に匹敵する」とまで言われた岸だが、第8代阪神監督の重責を務めながら、「甲子園歴史館」でもその説明は3行ほどしか記されていない。歴史に埋もれた野球人を「掘り起こした」という意味でも、価値ある一冊と言えるだろう。

 「全くの無名だった人が、取材を重ねる中で輪郭がどんどん明らかになっていく。やり甲斐の反面、『この本を出したら、これが岸一郎の正史になってしまう』というのは、めちゃくちゃプレッシャーでした。時代のダイナミズムに翻弄されてしまいましたが、岸一郎、とんでもない人ですよ。ひょっとしたら、こんな人って過去に、多分まだいるんじゃないかと思って。人の『性(さが)』って、本当に面白い。もっと探さなきゃいけないし、残さなきゃいけない。それはライターとしての僕の仕事だとも、思うんですよね」

 <村瀬秀信>(むらせ・ひでのぶ)1975年8月29日、神奈川県茅ケ崎市生まれ。48歳。茅ケ崎西浜高卒業後、全国各地を放浪。出版社や編集プロダクションを経て独立。2017年から文春オンラインで「文春野球コラムペナントレース」コミッショナーを務める。著書に『4522敗の記憶』(双葉社)、『止めたバットでツーベース』(双葉社)、『気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている』シリーズ(講談社)など。