アイルトン・セナ没後30年目のポールポジション…不世出のドライバーがホンダとF1界に遺したもの

AI要約

1994年のサンマリノGPでアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーが死亡し、30年後にエミリア・ロマーニャGPで彼らへのトリビュートが行われる。

写真家アンジェロ・オルシがセナの最期を写真に収め、その後すべてのフィルムを破棄し、F1の取材を引退。セナの死で取材をやめた人もいたが、その中にはセナを目標にF1を目指した者もいた。

セナとホンダの関係が深かったことが紹介され、HRCのトラックサイドゼネラルマネージャーは学生時代にセナを見てF1に興味を持ち、ホンダに入社した経緯が語られる。

アイルトン・セナ没後30年目のポールポジション…不世出のドライバーがホンダとF1界に遺したもの

 あれから30年が経った。アイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガーが悲劇的な死を遂げた1994年のサンマリノGPから──。

 彼らの没後30年となる今年は、イモラ・サーキットで行われたエミリア・ロマーニャGPでさまざまなイベントが開催された。日曜日にはセバスチャン・ベッテルが自ら所有する、かつてセナがドライブしたマクラーレンMP4/8を駆り、セナとラッツェンバーガーへのトリビュートラップを行なった。

 サーキットから数キロ離れたイモラの街中にあるサン・ドメニコ博物館では、「マジック・セナ」と題された写真展が開かれていた。写真を提供したのは、アンジェロ・オルシと彼の元同僚のミルコ・ラッザーリだ。

 オルシとラッザーリは、イタリアの自動車雑誌のフォトグラファーとして94年のサンマリノGPを取材していた。レース当日、オルシがスタート時の撮影ポイントとして選んだのが、セナがクラッシュしたタンブレロだった。セナがコンクリートウォールに激突したとき、タンブレロにいたのはオルシだけ。直後に駆けつけた救護チームによってセナはコクピットから救出され、地面の上で医師による蘇生処置が施された。ヘルメットを脱がされたセナの変わり果てた顔、気道確保のための切開処置によって流れ出たおびただしい血、オルシはすべてを撮り続けた。

 その後、数名のカメラマンがタンブレロに到着したときには、マーシャルたちが周囲を囲み視界は遮られた。セナの最期を写真に収めたオルシの元には多数のオファーが寄せられたが、生前からセナと厚い親交を重ねていたオルシはそれらのオファーをすべて断っただけでなく、所属先の自動車雑誌への掲載も拒んだ。

 オルシはそのフィルムの存在をセナの家族に知らせた後、セナの家族と自動車雑誌の承諾をとってタンブレロで撮影したすべてのフィルムをハサミで切り刻んで消却した。

 その後もオルシはラッザーリとともにF1の取材を続けたが、10年後の2004年にオルシはフォトグラファーを引退。ラッザーリもF1を離れた。

 オルシやラッザーリだけではない。セナの死がきっかけとなって、F1の取材をやめたジャーナリストやフォトグラファーは少なくない。

 その一方で、セナの活躍する姿を見てF1を目指した者もいる。セナが愛したホンダのスタッフたちだ。

 セナとホンダの絆が深まったのは89年。その年の日本GPでアラン・プロストと接触した後、トップでチェッカーフラッグを受けながら失格となってタイトルを逃したセナは、F1をやめようと真剣に考えていた。それを思いとどまらせたのがホンダだった。ホンダのエンジニアたちが自分のために最高のエンジンを提供しようと冬の間に努力しているという事実を知ったセナは、ホンダとともに90年シーズンを戦い、チャンピオンに返り咲いた。

 現在、ホンダ・レーシング(HRC)のトラックサイドゼネラルマネージャーとしてHRCのスタッフを現場で統率する折原伸太郎は、セナがホンダとタッグを組んでF1に挑戦する姿を見ていたひとりだ。

「学生のときにセナを見て、F1をやりたいと思ってホンダに2003年に入社しました。そういう人は私だけでなく、ホンダにはたくさんいます。セナがホンダに遺してくれたものは本当に大きいんです」