「もう辞めます…」ちょっぴり弱気で、優しい遅咲きの柔道家・高山莉加 尽きない周囲への感謝の言葉「みんなに道をつくってもらって今がある」 女子78キロ級【パリ五輪】

AI要約

高山莉加は初出場のパリ五輪柔道女子78キロ級でメダルには届かなかったが、持ち前の力と人柄で全力を尽くした。

過去の経験や環境に支えられ、柔道を続ける決意を固め、五輪に向けて努力を重ねた高山莉加。

メダルには届かなかったものの、負け続ける選手へのメッセージを残し、柔道の精神を伝えようとした。

「もう辞めます…」ちょっぴり弱気で、優しい遅咲きの柔道家・高山莉加 尽きない周囲への感謝の言葉「みんなに道をつくってもらって今がある」 女子78キロ級【パリ五輪】

 パリ五輪の柔道女子78キロ級で初出場だった高山莉加(三井住友海上)=宮崎県都城市出身=は3位決定戦に臨んだが、惜しくも敗れてメダルには届かなかった。

 3歳で柔道を始め、両親は他のスポーツも経験させてくれた。水泳は「バタフライができなくて」辞めた。「興味本位なんですが」と野球にも挑戦したこともあるが「これは3日で辞めました」。不思議と柔道は続いた。「小さい頃からしていて、当たり前だった」

 鹿児島南高で頭角を示し金鷲旗では3位に。全国総体も制した。当時指導した鮫島将太朗さんは「気を抜けばサボるし怒ったことも多々ある。高い意識で常に取り組んでいた感じではない。でも実力はピカイチで練習相手がいなかった」。いつも鮫島さんが相手をした。

 力はある。ただ気が優しく少しだけ逃げ腰で高山自身も「末っ子気質で皆さんに甘えまくっている」。柔道も高校で辞めるつもりだった。「稽古は苦しいし嫌になった。支える側になりたい」。鹿児島市内にある栄養士の学校の校舎を眺めながら、どんどん気持ちは傾いた。

 母に相談すると「あなたは計算できないでしょ。そもそも料理もつくれないから」と言われた。ショックだったが「確かに」と妙に納得した。鮫島さんも部の仲間も、誰もが懸命に柔道を続けることを勧めてくれた。「逃げたい」思いは見透かされていたようだった。

 三井住友海上に入社すると、78キロ級は鹿児島南高の先輩で、東京五輪金の浜田尚里(自衛隊)=鹿児島県霧島市出身=らの壁が厚く、五輪はおろか世界選手権の代表にもなれない。国際大会があったパリで、チームに「もう辞めます」と号泣しながら電話をかけたこともあった。

 コロナ禍も追い打ちをかけた。職場の同僚は懸命に日々の業務を続けていた。「私はそんなに業務もできないし、在宅する仕事も、そこまで任せてもらう仕事も…。仕事が柔道なのに試合もない。私に何ができるんだろう」と自身を責め続ける時間が続いたという。

 「存在価値がないんじゃないか。柔道を辞め社業に就いた方が世の中の役に立てる」と本気で考えた。ここでも家族や仲間、鮫島監督や所属先の上野雅恵監督に引き留められた。「ここで諦めたら何もない。諦めなければ道は開く」と翻意。ようやく腹は決まった。

 ふと過去の節目を振り返った。「みんなに道をつくってもらって今がある」。そう思うと畳から逃げる考えは霧散した。「一人だけの五輪じゃないんで」と常に口にし続け、九州で培った寝技を必死に磨いた。鮫島監督は「ほっとけなくてね。朗らかで本当に優しい子。だからみんな支えたくなる」。確かな力と人柄がパリにつながった。

 惜しくもメダルには届かなかった。「取れなくて本当にごめんねっていう言葉を言いたい」と試合後に口にしたところが高山らしい。これまでの経緯も踏まえて「私みたいに負け続けてどうしても勝てない選手っていっぱいいると思う。そういう選手も少しでも経験を伝えていけたらいいな」とも言った。

 誰からも愛され大きく成長を遂げた柔道家は、パリで逃げずに、立派に全力で戦い抜いた。(パリ山田孝人)