田中希実の父親が明かす“共闘”の真実 Vol.4 希実の誕生前後に経験した「妻との共闘」

AI要約

田中健智氏と妻・千洋さんとの共闘エピソード。妻はマラソンランナーとして活躍し、産休後も復帰。希実の誕生前後も練習スタイルを確立し、共に考えながら行動。

妻は遅れてきた選手を抜きながら、確実なペースで走るスタイルを貫き、長野マラソンで2時間32分05秒のセカンドベストを記録。産休後も精力的に活動続ける。

希実の誕生、成長を見守りながら、健智氏と千洋さんは共にコーチングの手法を磨き、共闘を通じて家族の絆を強めていく。

田中希実の父親が明かす“共闘”の真実 Vol.4 希実の誕生前後に経験した「妻との共闘」

田中希実。日本女子中距離界に衝撃を与え続けている小柄な女王。その専属コーチは実父・田中健智である。指導者としての実績もなかった男が、従来のシステムにとらわれず「世界に近づくためにはどうしたらいいか」を考え続けてきた。そんな父娘の共闘の記憶を、田中健智の著書『共闘』から抜粋しお届けする短期連載。

第4回目は、第1章「長距離王国」に生まれた宿命より、田中健智氏と妻・千洋さんとの間に長女・希実が産まれる前後にあった、夫婦の“共闘”エピソードから。

こうして結婚して数年間は、妻の高校時代の恩師であるコーチのもと、私は練習パートナー兼マネージャーとして、マラソンランナーの妻をそばでサポートしてきた。振り返れば、そのコーチの練習メソッドが興味深く、私自身の発想にも近いものがあり、現在の希実へのコーチングの一つのヒントになっている。

例えば、多くのマラソンランナーは、持久力の強化や脚づくりのために

40キロ走を行っているが、私たちの練習で30キロ以上走り込むことはほとんどなかった。コーチには持論があり、練習で30キロをレースペースで当たり前のように走ることさえできれば、後は2時間半~3時間動き続けることを身体に馴染ませるだけ。

逆に、レースの距離に近い40キロ走を行うことで、良くも悪くも自分の現状を把握してしまい、場合によっては「今の自分はダメだ」とネガティブな心理状態でスタートラインに立つことにもつながりかねない。ただただ走り込むことによって疲労が溜まったり、ピーキングがずれたりするよりも、いつでも走れるというコンディションを保っておくことのほうが大切だと考えていたのだ。実際、妻が2002年の名古屋国際マラソンで初めて2時間半を切った時も、月間走行距離は600キロ程度だったはずだ。こうした発想は、現在の希実のコーチングにも通じている。

妻は決められたペースを淡々と刻み、遅れてきた選手を一人、二人と抜かしていくというレーススタイルで、大崩れしないのが強さなのだろう。97年の北海道マラソン優勝以降は、約1~2か月に1回のペースでマラソンを走り、どのレースでも上位に食い込んでいた。私は途中でコーチを引き継いだのだが、彼女はすでに練習スタイルを確立していたし、あえて私の「色」を放り込むのではなく、二人で「この練習はこうしたらよくなりそうだ」と相談しながらやってきた。

そして妻は、98年11月の東京国際マラソンで7位に入ったのを最後に、長女の産休のため、活動を休止した。当時はまだ、産後に現役復帰する女性ランナーはほとんど見かけなかったが、彼女には「2時間半を切ってから引退したい」という心残りがあったようだ。

産前の自己ベストは、2時間31分39秒(98年の名古屋国際女子マラソン)。もう少しで手の届く記録なのだから、出産後に改めてチャレンジするべきではないか。そう背中を押した。私自身、彼女には走り続けてほしいと思っていたし、おそらく彼女も誰かに後押ししてほしいと思っていたのではないだろうか。

レース復帰を見越して、なるべく時間を置かずに産前の身体に戻れるよう、体重の増加をどの程度まで抑えても問題ないのか、医師と相談しながら、本人はプールやウォーキングで出産ギリギリまで身体を動かし続けていた。出産を終えた1か月後にハーフマラソンで復帰。その1年半後には長野マラソンで2位に入り、2時間32分05秒のセカンドベスト(当時)をマーク。そして翌年の名古屋では、当時の経産婦日本最高の2時間29分30秒で4位入賞を果たしたのだ。

2024年3月の名古屋ウィメンズマラソンで98回目の完走を遂げ、記念の100回も目前に迫っている妻だが、実は、経産婦最高を出した1年後の次女の産休に入るタイミングで、競技生活に区切りをつけようと思っていたそうだ。

しかし、引退を決めていた妻をまた走らせたのは、希実の何気ない一言だった。

【田中希実の父親が明かす“共闘”の真実Vol.5に続く】

<田中健智・著『共闘セオリーを覆す父と娘のコーチング論』第1章「長距離王国」に生まれた宿命より一部抜粋>

田中健智

たなか・かつとし●1970年11月19日、兵庫県生まれ。三木東高―川崎重工。現役時代は中・長距離選手として活躍し、96年限りで現役引退。2001年までトクセン工業で妻・千洋(97、03年北海道マラソン優勝)のコーチ兼練習パートナーを務めた後、ランニング関連会社に勤務しイベント運営やICチップを使った記録計測に携わり、その傍ら妻のコーチを継続、06年にATHTRACK株式会社の前身であるAthle-C(アスレック)を立ち上げ独立。陸上関連のイベントの企画・運営、ランニング教室などを行い、現在も「走る楽しさ」を伝えている。19年豊田自動織機TCのコーチ就任で長女・希実や、後藤夢の指導に当たる。希実は1000、1500、3000、5000mなど、数々の日本記録を持つ女子中距離界のエースに成長。21年東京五輪女子1500mで日本人初の決勝進出を果たし8位入賞を成し遂げている。23年4月よりプロ転向した希実[NewBalance]の専属コーチとして、世界選手権、ダイヤモンドリーグといった世界最高峰の舞台で活躍する娘を独自のコーチングで指導に当たっている。