「歩くのも座るのも難しくなって…」屈強だったマサ斎藤の体を蝕んだパーキンソン病…逝去前日、トレーナーに遺していた“ある言葉”《七回忌》

AI要約

マサ斎藤はプロレスラーの中でも特別な存在であり、長いキャリアを持つレスラーの中でも真のトップヒールとして活躍した。

彼はアメリカ修行で孤独な道を選び、若き日の長州力や天龍源一郎にとっても指針となる存在だった。

最後はパーキンソン病との闘いで苦しみながらも、愛弟子を指導し続け、最後まで病に立ち向かった。

「歩くのも座るのも難しくなって…」屈強だったマサ斎藤の体を蝕んだパーキンソン病…逝去前日、トレーナーに遺していた“ある言葉”《七回忌》

 2024年7月14日、マサ斎藤さんが亡くなってから七回忌を迎える。マサ斎藤といえば、プロレスラーも憧れる“レスラーの中のレスラー”と呼べる存在だった。

 1964年の東京オリンピック・レスリング重量級日本代表の肩書きを提げて、翌’65年にプロレス入り。’68年に渡米後は、本場アメリカマットを一匹狼として渡り歩き、長年トップヒールとして活躍した。その逞しい生き様は、ファンだけでなく同じレスラーからも憧れの的だった。若き日に長州力と天龍源一郎は、それぞれレスリング、大相撲からプロレスに転向後、なかなか芽が出ずに燻っていたが、アメリカ修行中にマサさんと出会い、異国で腕一本でカネを稼ぐその姿を自らの指針としたほどだ。

 80年代後半からは主戦場を新日本プロレスに移し、アントニオ猪木とのライバル抗争を展開。’87年10月4日に山口県下関市の無人島、巌流島で無観客の中2時間5分14秒にわたり展開された“巌流島の決闘”は今も語り草となっている。

 80年代末から90年代は新日本プロレスの外国人ブッカー(渉外担当)としてビッグバン・ベイダー、スコット・ノートンらを発掘。さらにアメリカのメジャー団体WCWの副社長エリック・ビショフと意気投合し、日本でも一世を風靡した“nWo”の使用許諾を、契約書ではなく握手のみで成立させたこともある。

 そして’99年2月に現役を引退し、ブッカーとしてさらに活躍しようとしていた矢先にパーキンソン病という病がマサを襲った。

 その後は愛弟子・佐々木健介が主宰する健介オフィス(ダイヤモンドリング)の選手アドバイザーとして、若き日の宮原健斗、中嶋勝彦、マサ北宮らを指導しながら必死のリハビリを行い、18年もの長い間、パーキンソン病という進行性の難病と闘い続けたが、2018年7月14日、75歳で帰らぬ人となった。

 そして今回、七回忌という節目にパーソナルトレーナーとしてマサ斎藤の“最後の闘い”をサポートした作業療法士・庭野航介さんの話をうかがう機会に恵まれた。

 庭野さんは2014年から4度、それぞれ1カ月半にわたるマサさんの集中リハビリを担当。亡くなる当日まで寄り添い、晩年のマサさんをもっとも間近で目撃した庭野さんに、マサさんの奥様・倫子夫人の許諾・同席のもと最後まで病に立ち向かっていったプロレスラー・マサ斎藤の姿を語ってもらった。

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