残る記録のほとんどない『秘匿飛行場』の建設に 石ころだらけの盆地へ動員された子供たちの #戦争の記憶
1945年、終戦間際に新潟県魚沼市で秘密裡に建設された『飛行場』についての記録がほとんど残っておらず、子どもたちも動員される過酷な状況で作業が行われた。
飛行場建設の命令は突然下され、八色原で急造工事が進められた。学校の生徒や青年団員が芝を刈り滑走路に植え付けるなど、多くの人が動員された。
八色原での急造工事を通じて、1945年8月15日に完成した飛行場は、当時の状況を物語る貴重な歴史的記録となっている。
■シリーズ『終戦から79年』
終戦間際の1945年に、たった1か月ほどの期間で旧日本軍が新潟県魚沼市でひそかに『飛行場』を建設していたことをご存じでしょうか?
芝を刈り、石を拾い…。
作業には子どもも動員され、完成したのは79年前の8月15日。
暑い夏の日でした。
【魚沼歴史・民俗の会事務局 八海昭夫さん(69歳)】
「皆さん汗水流して、のども乾いたでしょうしね。暑いさなかで、砂漠の中での作業のようなそんな感じだったでしょうから、本当に大変だったと思います」
本土決戦に備え、魚沼市小出地域の八色原(こいで・やいろはら)と呼ばれる場所に建設された“秘匿飛行場”の計画は秘密裡に進められ、今に残る記録はほとんどありません。
当時の様子を語る桜井秀一さん(89歳)と森山みつさん(97歳)。
作業に駆り出されたのは、まだ幼い少年少女たちでした。
【森山みつさん】
「飛行場をつくるにあたって、そこをみんな掘り返して、こういうゴロゴロした石をみんな拾い出したわけ、それを私らがした。骨が折れましたね、暑いときで」
飛行場建設の命令は、突然下されたといいます。
『小出町史』には1945年当時の出来事が記されています。
「6月下旬、陸軍航空関係の二人の将校が伊米ヶ崎村(いめがさきむら)に現れ、八色原と近郷一帯を眺めて帰った」
「それから数日後の7月はじめに、『八色原に飛行場を建設するために土地を収用する。伊米ヶ崎国民学校校舎を兵舎に提供せよ』との命令が下った」
「既に沖縄は占領され、日本の大都市はほとんど空襲で焼け野原となっていたが、大本営は本土決戦を計画していたのであった…」
八色原で行われた急造工事。
国民学校(今で言う小学校)の初等科5・6年生や高等科の2学年、そして卒業後の青年団員らが建設に動員され、鎌やくわを手に刈った芝を滑走路に植え付ける作業などを行いました。
当時5年生だった女性が記憶をもとに描いた絵画からも、その様子がわかります。