【戦後79年目】「悲しいって思えばいいんですけど、そんな気持ちすらなく…」終戦2日前の空襲 友人を亡くした男性の証言

AI要約

終戦から79年、山梨県大月市で起きた空襲を経験した男性の証言。

清水昭伯さんは若い頃の厳しい時代や大月空襲の過酷な体験を語る。

初めての空襲に慌てふためき、防空壕を目指して逃げる中で生起した凄惨な出来事。

【戦後79年目】「悲しいって思えばいいんですけど、そんな気持ちすらなく…」終戦2日前の空襲 友人を亡くした男性の証言

終戦から79年、戦争の記憶を未来につなぐつなぐ、つながるをシリーズでお伝えします。

今回はちょうど79年前に山梨県大月市で起きた空襲を経験した男性の証言です。

山梨県都留市井倉に住む清水昭伯さん、昭和5年7月14日生まれの94歳です。

戦時中の世の中を次のように話します。

清水昭伯さん:

「若い年代の人には想像もつかないような厳しい時代だったね。(食料は)配給っていうのがありましてね、人数にしたがって物を分けてくるわけで、思うようにはいかなくてそれに従うだけ。そういう世の中でしたね」

清水さんは15歳の時、大月空襲を目の当たりにし、壮絶な経験をしました。

大月空襲があったのは終戦2日前の8月13日でした。

61人が犠牲になり死者のうち30人は都留高等女学校と旧制・都留中学校の生徒でした。

松島直輝アナウンサー:

「ここは、何があった場所にになりますか?」

清水昭伯さん:

「ここが興亜航空だとすればね、この向こうが防空壕があったところのはずなんですけども、全く当時の面影が見えないですね」

清水さんは当時、勤労奉仕で輸送機の翼を造る仕事をしていました。

79年前の8月13日朝から工場で仕事の準備をしていたところ、空襲警報が鳴り響きます。

清水昭伯さん:

「空襲警報が入りましてね、いつものことでちょうど具合がいいと。(友だちと)きょうはちょうどいいから下宿を見に行こうと。それで町へ出たの」

戦時中は空襲警報が鳴っても実際に爆撃はなかったため、清水さんは気のゆるみから友だちと一緒に町へ出かけます。

しかし、そこで待ち受けていたのは・・・

清水昭伯さん:

「機銃掃射そういうものを受けて、機銃掃射の時に私は慌てて国道から(近くの)枝道へ飛び込みました。空襲を受けて慌てちゃったから、友だちと一緒にいることなんか忘れちゃって。あぁ防空壕にいれば良かったと思って防空壕を目指して」

初めての空襲に慌てふためき、防空壕のある場所に向かって必死に逃げる清水さん。

目にしたのは爆撃の影響で防空壕が崩れ、仲間が生き埋めになっていたという凄惨な状況でした。