“軍艦の砲身取り付けた忠魂碑” 建立100周年で平和への誓い 後世につなぎたい郷土の歴史【戦争の記憶とやま 2024】富山・立山町

AI要約

富山県立山町の忠魂碑が建立100周年を迎え、神事が執り行われました。戦没者を追悼し、平和への誓いを新たにする参列者が集まりました。

砲身の由来が長らく判別不能だったが、最近の調査で初期の戦艦「安芸」に装備されていた可能性が高いことが判明しました。

地元の負担で輸送された砲身が建立に必要な予算の2年分を超える費用がかけられたことが明らかになりました。

“軍艦の砲身取り付けた忠魂碑” 建立100周年で平和への誓い 後世につなぎたい郷土の歴史【戦争の記憶とやま 2024】富山・立山町

旧日本海軍の軍艦に装備されていた長さ7.2メートルの砲身を取り付けた忠魂碑が建立100周年を迎え、記念の神事が執り行われました。忠魂碑には立山町利田地区から出征して戦死した65柱がまつられていて、参列者が平和への誓いを新たにしました。

建立100周年の神事は、富山県立山町、利田地区の自治振興会でつくる「利田忠魂碑建立100周年記念事業実行委員会」が主催したもので、富山県の新田八朗知事や立山町の舟橋貴之町長など関係者65人が参列しました。

利田地区の忠魂碑は、日露戦争と太平洋戦争の戦没者65柱をまつるため1924年(大正13年)、利田村在郷軍人分会が建立したもので、旧日本海軍の軍艦から取り外された大砲の砲身が台座に据えてあります。

砲身は長さ7.2メートル、口径15センチ、重さ9トンあり、台座の上に直立した状態で据え付けられています。

■村の “年間予算の2倍” をかけて輸送…

12年前から砲身の由来を調べてきた立山町議、岡田健治さんによりますと、これまで地元では1905年(明治38年)5月の日本海海戦で活躍した「志保丸」の砲身とされていましたが、当時の資料には該当する軍艦がないほか、申し出た時期が1923年(大正12年)9月1日の関東大震災直後の混乱期で確かな裏付けがなく、長らく判別不能となっていました。

こうしたなか、この春の建立100周年記念実行委員会立ち上げを機に本格調査が行われ、砲身の手掛かりとなる当時の新聞や国立公文書館の資料などから、旧海軍が建造した初期の戦艦「安芸」に装備されていた可能性が高いことがわかりました。

砲身は広島県の呉海軍基地にあったもので、貨車2台連結した特別車両で北陸線の米原駅から山室駅(現在の富山地鉄不二越駅)まで運んだあと、山室駅からは利田村の村民約500人が出て、大八車4両に乗せて2日間かけて利田小学校の敷地内に運ぶ大事業だったということです。

これら輸送にかかる費用は地元が負担し、村の予算のおよそ2年分にあたる当時の金額で約1800円がかけられました。

■戦争の記憶が忘れ去られようとしている…

実行委員会はこれらの調査結果を建立100周年記念史の中に「真説 利田魂碑史」として紹介しています。

利田自治振興会長の酒井務会長は「戦争を知る世代が年々少なくなり、時代と共に悲惨な戦争の記憶が忘れ去られようとしています。先人たちの苦労と面影をしのび、地域づくりにまい進したいです」としています。

全国的に忠魂碑や戦争に関する史跡が、維持費用の問題から処分されることもあるなか、地域の歴史と深くつながる戦争の史料、歴史をどう後世につなぐかが課題となっています。