畑俊六の思い(7月26日)

AI要約

元帥畑俊六の軍歴と戦争責任、そして平和への思いを紹介。

畑が戦争の苦しみを反省し、平和国家への戒めを残したこと。

戦後の和の力と次世代への責任、終戦79年目を迎える現在の状況。

 戦没者慰霊の忠霊塔が棚倉町の棚倉城跡にある。隣に「元帥畑俊六終焉[しゅうえん]之地」の石碑が立つ。1962(昭和37)年5月、元帥陸軍大将だった畑俊六は自ら揮毫[きごう]した忠霊塔の除幕式で倒れて急逝した。82歳。終焉の碑は1年後に設けられた▼旧会津藩士を父に145年前のきょう7月26日、東京で生まれた。侍従武官長や陸軍大臣を務め、温厚誠実な人柄は昭和天皇の厚い信頼を得ていたものの、太平洋戦争への流れにはあらがえなかった。A級戦犯として東京裁判で終身刑となり服役。仮釈放を経て1958年に赦免された▼陸軍にまん延していた慢心を回顧録で糾弾しつつ、開戦に至った罪責もつづった。一方で、海軍は責任の全てを陸軍に転嫁していると見ていた。「武士の風上にも置けぬ」との言葉で怒りをにじませたのは、会津藩士の血を引く由縁か▼戦争は戦地にも、日本やアジアの人々にも耐え難い苦しみを強いた。畑は自責の念から、平和国家へ歩みだす国への戒めを残した。「貴ぶべきは人の和なるかな」。間もなく終戦から79年の8月を迎える。令和の世に和の力は果たしてどれほど蓄えられているだろう。次世代に転じてならぬ責任をかみしめる。<2024・7・26>