朝ドラのモデル三淵嘉子は「誰にも負けない家裁のスペシャリスト」を目指し5000人の少年に面接しつづけた

AI要約

連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデルである三淵嘉子さんは、裁判官として活躍し、家庭裁判所で多くの少年少女の審判に携わりました。

三淵さんは女性初の裁判所長として、家庭裁判所で重要な役割を果たしました。その過程でジェンダーバイアスや女性裁判官の扱いに関する不満も述べられています。

女性裁判官の地位向上の歴史や課題が、三淵さんのキャリアを通じて浮き彫りにされています。

連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)では、裁判官の寅子(伊藤沙莉)が再び家庭裁判所に異動し、少年部の部長に。NHK解説委員の清永聡さんは「寅子のモデルである三淵嘉子さんは、東京地裁の判事を務めた後、初めて家庭裁判所の判事となった。昭和30年代以降、少年犯罪が激増し、嘉子さんは審判で5000人もの少年少女に向き合い、女性初の裁判所長となった」という――。

■原爆裁判の判決を出す頃、48歳で家庭裁判所へと異動

 「虎に翼」の寅子(伊藤沙莉)のモデル・三淵嘉子さんは、ドラマと同じように、原爆裁判が結審した後、東京家庭裁判所の裁判官になりました。

 それは、戦後すぐの頃、裁判官を志望しながらも「女性の裁判官イコール家庭裁判所」をお決まりのルートにしたくないという思いから、いったんは拒んだ道でした。そして、名古屋地裁、東京地裁を経て、東京家庭裁判所に初めて判事として異動したとき、三淵さんは48歳。同期の男性は次第に地裁の部総括(裁判長)になっていく中、彼女は地裁の裁判長になってはいません。

 昭和30年代は、三淵さんに限らず、女性裁判官が地裁や高裁の裁判長に登用されませんでした。裁判長になると2人の陪席裁判官と「合議体」を組んで判決を出していきます。しかし当時は女性裁判官の数が少ないので、どうしても左右は男になる。そうなると、女性が男性を率いる構図になってしまいます。当時を知る元幹部に話を聞くと、地裁や高裁の裁判長に女性がなかなか就任できなかったのは、「男性裁判官のプライドとして避けたい」という思いが働いたのではないかと思われていたそうです。結局、東京地裁で女性が初の部総括(裁判長)に就任したのは、昭和49年の寺沢光子さんまで待たなければなりませんでした(日本女性法律家協会による)。

■「裁判長になるべき女性が家庭裁判所に送り込まれてくる」

 結局三淵さんは東京家庭裁判所で部総括(裁判長)になりましたが、家裁の審判は多くの場合、裁判官1人で行うのです。また、三淵さんは東京家裁の後やはり地裁や高裁に勤務することなく、新潟、浦和、横浜で家庭裁判所の所長を務めます。女性の裁判所長は三淵さんが初めてでした。家裁に異動になった頃は「この上は誰にも負けない家庭裁判所のベテラン裁判官になろう」と周囲の女性たちと励まし合っていたそうですが、まさに、そのとおりのキャリアを築きました。

 ちなみに、三淵さんの後任では、野田愛子さんが札幌、前橋、静岡、千葉、東京の5カ所で家裁所長を歴任した後の昭和62年に札幌で女性初の高等裁判所長官になりますが、やはり地裁の裁判長も高裁の裁判長もやっていません。特に野田さんの場合、長官に就任する前、家裁の所長ばかり5カ所も回るというのは、通常ではちょっと考えにくく、人事の不自然さを感じざるを得ません。そこは司法のジェンダーバイアスがあったと考えることもできます。

 ただし、三淵さんは家裁にやりがいを持っていたようです。家庭裁判所の創設に携わっているから、愛着もあったし、けっして家裁の仕事自体が嫌ではなかった。ただ、三淵さんが『女性法律家』(有斐閣)という本の中で、「私が家庭裁判所へ配属された後女性裁判官の先輩グループが次々と家庭裁判所へ配属されるようになった」「地方裁判所に配置されていれば裁判長になるべき女性裁判官達が次々と家庭裁判所に送り込まれてくる」と書いているように、女性裁判官の扱いについてははっきりと不満を持っていました。その背景としてかつて「女性法曹は女・子供の相手をしていれば良い」というような女性蔑視、家庭裁判所蔑視があったことは否定できないのではないでしょうか。

 【参考記事】「男性裁判官は『女性裁判長の下』を避けた…朝ドラのモデル三淵嘉子らが家庭裁判所に続々と送り込まれたワケ」