鴻巣友季子の文学潮流(第17回) ヴァージニア・ウルフ自選短編集「月曜か火曜」 画期的な新訳の明晰さ

AI要約

ヴァージニア・ウルフの翻訳書『月曜か火曜』が注目を集める。短編集であり、初めて8作すべてを収録した日本語完全版として登場する。姉の木版画も復刻されている。

翻訳の質の高さは、別のウルフの随筆「病気になること」の新訳から見ても分かる。ウルフの肉体と精神の関係についての考察も含まれる。

ウルフは肉体を精神よりも下位に置く心身二元論に批判的であり、病気には新たな視点や恩恵があると述べている。新訳で理解が深まる部分も多い。

 今月の文学潮流は翻訳書一冊に絞りこんで書こうと思う。「鈍器本」と言われる分厚い本も話題のなか、なかなかスリムな一冊。ヴァージニア・ウルフ『月曜か火曜』(片山亜紀訳/エトセトラブックス)である。

 モダニズム文学を代表する作家ウルフが、唯一自分で編んだ8篇を収めた短篇集であり、8作すべてを収録した日本語完全版が出るのは初めてだという。ウルフの姉ヴァネッサ・ベルの木版画も復刻されている。

 ウルフの短篇とはこういうものだったか! と、目から果てしなく鱗が落ちる。この翻訳の凄さを語るには、片山亜紀がコロナ禍で新訳したウルフの随筆「病気になること」(1926年)の話から始めなくてはならない。これは、ウルフがインフルエンザに罹患した際の体験とそれをめぐる思索をもとにしているとされる。

 文学はなぜか長らく、心を上に、身体を下に見てきたのではないか。ウルフはこれを、「英語を使ってハムレットの思索やリア王の悲劇について表現することはできても、悪寒や頭痛には語彙がない。英語の発展はかなりいびつである。まだ学校に通っている女の子であれ恋をしたなら、シェイクスピアやキーツの言葉で心のうちを語ることができる。ところが頭痛に苦しむ人が医者に向かって痛みを表現しようとすると、とたんに言語は干上がってしまう」(片山訳)と言っている。

 これを突き詰めていくと、肉体を精神の下位におく心身二元論が顔を出すだろう。「悲劇」は深遠なもの、「頭痛」は卑近なもの。文学にとっての関心事は精神であり、肉体など「一枚のガラス板のようなもの」で「無視してよろしい」「存在しない」とする考えにウルフは憤慨したのだった。

 病を得ることには、さまざまな恵みがあるとウルフは考えた。この随筆で理解がむずかしかったのが、the upright(垂直に立った)とthe recumbent(水平に寝た)という単語だ。この二つが一対の概念になっているということすら、片山訳を読むまで私は気づいていなかった。従来の訳文では、the uprightは「正義の人びと」、the recumbentは「怠惰な者たち」などと訳されていた。

 片山訳では、これらが「直立人たち」と「横臥する者たち」になっている。つまり、ぴんぴん立っていられる健康者と、横になるしかない病者だ。それをウルフは「縦と横」の対比的イメージで表現したのだった。この新訳により、横臥者の目に映る世界が鮮明に見えてきた。