一枚の地図が起こす小さな跳躍、ささやかな奇跡。

AI要約

観光案内所でもらった地図が持つ魅力について語られたエッセイ。

小さな町の地図には情報が限られているが、それでも指し示される場所に興味を持つ。

地図が持つ不思議な誘惑に釘付けにされる体験が描かれている。

一枚の地図が起こす小さな跳躍、ささやかな奇跡。

時代を超えて、常に私たちの生活の中にある地図。私たちは「地図」を通して何に出会っているのでしょうか。さまざまな地図や「地図のようなもの」に魅せられた東辻賢治郎さんのエッセイ集『地図とその分身たち』から、冒頭のエッセイ「差し出される地図」を公開します。

どんなに小さな町にも観光案内所があって、この町の地図をくださいといえばカラフルに印刷された旧市街の観光地図をくれたものだった。カウンターの奥には落ち着いた物腰の女性か休暇のアルバイトと思しき退屈そうな学生がいて、その地図を私たちが読める向きに広げるなり、私たちがいるのはここですね、と言って太いボールペンでぐるぐると丸をしたり、星型の印を描いてくれたりする。そして地図を見つめながら何かを問えば、彼女または彼はその地図のどこかの一点をまるで自分の手のひらを指すように迷いなく示すのだ。

パリで乗り継いだ飛行機をトゥールーズで降り、そこから中央山塊の方角へ車で二時間弱。九月も中旬を過ぎれば、そんな田舎の小さな町に遠方からやってくる者は私たち以外にほとんどいなかった。脇のラックに絵葉書が並んでいて、よく探せばその中には必ず、おそらく何十年か前に撮影したのだろう、高みから市街をまるごと見下ろした構図の色褪せた葉書が何枚か隠れていた。運がよければその町の歴史書が置かれていることもあった。多くの場合は地元の郷土史家の手によるもので、稀書のようにカウンターの背後の戸棚に収められているか、あるいは土産物が閑散と並ぶ棚の隅にすっかり埃をかぶって立てかけられていた。休暇中にそんなものを買い求めて鞄の重みを増そうという観光客もまた、私たちを除けばほとんどいないのだろう。

かつての城壁のまわりに広がった住宅群が今ではささやかな「郊外」をつくり出している町でも、観光案内図や絵葉書に描かれているのは決まって旧市街のいびつな姿だけだった。あるいは人体解剖図の臓物か何かのように、地図に入れ子のように重ねられた小さな地図の中に、引き伸ばされた複雑なその街路の姿が描かれていた(こうした地図のインセットはいつごろ発明されたのだろうか)。しばしばそれは、都市図と呼ばれる地図の類型が、真横を向いたルネサンスの肖像画のように、はっきりとした輪郭のある町の肖像を描いていた時代のことを思い出させずにはいなかった。

とはいえ、たいてい、そんなところで私たちが手に入れる地図は何の役にも立たない。私たちはすでにその国の公的機関を通じて、その一帯の十九世紀初頭から現代にかけての詳細な地籍図を手に入れているし、鞄の中の記憶媒体には何ギガバイト分かの航空写真のデータもある。場合によっては、自治体のアーカイブがデジタル化した近世の古地図も何枚か保存してある。もちろんコンピュータには最新のGISデータが蓄えられていて、標高の値や土地利用をはじめとするさまざまな情報を参照することもできた。そこで見るべきものについても、「観光名所」はもとより、観光案内に載ることのない建造物や資料についてもすでに大方の目星がついていた。つまり私たちはその忙しい旅程では消化しきれそうにない材料をすでに手にしているのだった。

そんな鞄の中の「地図」に比べれば、観光案内所のカウンターで渡される旧市街の地図は年代も判然としないし─それはいつ作成されたものなのか? いつの町の姿を示しているのか? 「今現在」とはいつのことなのか?─縮尺の割に描写が単純すぎて、読み取ることのできる情報も限られていた。もちろん私たちが関心を向けていたようなものは─たとえば中庭の配置とか路傍の泉とか─描き込まれてはいないし、縮尺や方角の手がかりもない。仮にそれがあったとしても、そんな手がかりには地図らしい飾りとなること以上には役割が与えられていないように思えた。その町をまだ知らない私たちは、目を据えるべき点をその地図の上に見つけることができずに、視線を上滑りさせるばかりなのだった。

けれども、私たちがいるのはここですね、という言葉とともに、私たちは魔法にかけられたようにその素朴な観光案内図を覗き込むのだった。そしてカウンターに広げられた紙片に身を寄せて、差し出された指の先を食いいるように見つめながら、時には本当には興味のないことを問いかけさえした。そのとき期待しているのは、その問いが町のどこで解決されるかを知ることではもはやなかった。きっと私たちの望みは、彼女または彼が簡潔なまでの自信と素早さをもって地図のどこかを指差すこと、ほとんどそれだけだった。差し出された地図を眼前にして、何かを指し示されることの不可思議な誘惑に私たちは釘付けにされていたのだ。