小大名だった堀氏が築いた小さな平城・村松城、名城でも堅城でもない城の、他にはない魅力とは?

AI要約

村松城の歴史や築城のいきさつ、村松藩堀家の城主格昇格などについて紹介。

村松城の特徴やその後の運命、現在の状況について述べる。

地元の人たちが城跡を整備し、歴史を伝えようとする姿勢について触れる。

 (歴史ライター:西股 総生)

■ 堀氏が築城に至るまで

 今回は、新潟県五泉市にある村松城という、小さな平城の話を書こう。

 村松城という城の名は、よほどの城マニアか、地元の人でなければ知らないに違いない。新潟県の主な城を紹介したような本でも、普通は採り上げられていない。けれども筆者は、なかなかに面白い、一度は訪れてみる価値のある城だと思っている。村松城を築いたのは堀氏という大名であるが、築城に至るいきさつが面白い。

 豊臣政権の傘下に入った上杉景勝が越後から会津に転ずると、秀吉は堀秀治を越後に封じた。この越後堀氏はほどなく内訌によって一旦絶えてしまうのだが、傍系にあたる堀直寄が大坂の陣の戦功によって、越後の長岡に、ついで村上に10万石で封じられた。

 この村上堀家の分家が、寛永16年(1639)に3万石で安田に入り、さらに正保元年(1644)に村松に移って村松藩が成立した。村上の本家の方は、跡継ぎに恵まれずに断絶してしまったが、村松堀家の方は代々続くこととなった。

 ところで、江戸時代の大名は、大きく「国持ち」「城持ち(城主)」「城主格」「無城」にランク分けされている。国持ちは、加賀前田家や薩摩島津家のような大大名。それ以外の大半の大名は城持ちクラス、1~3万石程度の小さな大名は、城を持つことができないクラスで、村松藩堀家もこのグループだった。

 ところが、嘉永3年(1850)になって村松堀家は、にわかに城主格に格上げされることとなった。「城主格」というのは、あまり知られていないが、3万石程度の小大名でも格式上は城持ち大名に準ずる立場で、20家くらいあった。城持ち大名はだいたい130家、陣屋住まいの無城大名は100家くらいだから、城主格はレアな存在といえる。

■ 陣屋ではなく「城」

 小藩とはいえ身分がランクアップしたのだから、城持ち大名らしい体裁を整えなければならない。村松藩では、大急ぎで陣屋に替わる城を築くこととなった。こうしてできたのが村松城で、それまでの塀で囲まれただけの陣屋とは違って、小さいながらも堀と土塁に囲まれ、本丸と二ノ丸からなる平城である。

 本丸の正面虎口は、城らしく土塁囲みの枡形として、要所には横矢掛りの折も設けた。土塁の上に廻らせる塀には、鉄炮を撃つための狭間も備えた。狭間は、陣屋には許されない装備なのである。もっとも、水堀は長靴を履いたら渡れそうな浅さだし、土塁も申し訳程度のサイズしかない。それでも陣屋ではなく「城」だ、と示したいのである。

 こんなふうにしてできあがった村松城も、長くは続かなかった。築城から20年を経ずして戊辰戦争の兵火にかかり、灰燼に帰したのである。城跡は田畑となり、やがて蒲原鉄道の線路や道路が貫通して分断され、城の面影は失われていった。

 現在、城跡には小さな資料館が建ち、堀と土塁の一部、本丸の枡形虎口が復元されている。1980年代以降、少しずつ調査が行われたり、蒲原鉄道が廃線となったりする中で、地元の人たちが何とか昔日の姿をよみがえらせたい、と整備してきたのだ。

 村松城は、名城でも堅城でもない。はっきりいって「ショボい城」だ。けれども、そんな城にも、他のどの城とも違う歴史がちゃんと宿っていて、知った上で見るなら、その姿は何ともいじましく映る。

 名城めぐりや、名城ランキング企画では決して味わうことのできない、ひそやかな歴史の愉しみを、この城は教えてくれる。