お盆にやることとは? 実は知らないお盆の由来と本当にやってほしいこと

AI要約

お盆は日本人にとってなじみ深い行事でありながら、その本質を理解している人は少ない。お盆行事は死者をもてなす昔ながらの行事であり、ローカルな知識が重要である。

お盆の時期や目的、仏教的説明、由来について詳細な解説がされており、死者との付き合いを含めた歴史的背景が示されている。

お盆行事は仏教的な要素と地域ごとの伝統が融合したものであり、死者との共同飲食が基本的な要素として大切視されている。

お盆にやることとは? 実は知らないお盆の由来と本当にやってほしいこと

 お盆は昔ながらの行事です。私たち日本人にとってなじみ深い行事である一方、お盆の本質を理解できている人は少ないかもしれません。大切なのは、ローカルな知識への適切なアクセスです。

 この記事では、そもそもお盆とは何か、お盆には何をすればよいのかを説明します。この機会に、お盆について、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

 お盆行事とは、複数の専門家と協力して死者をもてなす、昔ながらの行事です。この行事を執り行う際には、家族や土地それぞれのローカルな知識が、最優先されてきました。つまり、お盆にやることは必ずしも全国一律ではなく、家族や土地によって異なるわけです。

 「お盆」が奥深い行事である理由は、お盆の歴史や由来をひもとくと見えてきます。

(1)お盆の時期:旧暦の7月、今の暦では8月

 かつて「お盆」の時期は、田舎から都会へ出てきた人々が、墓参りのため里帰りする「帰省ラッシュ」が話題となりました。今もニュースが流れますが、むしろ交通「規制」ラッシュと呼ぶべきかもしれません。

 たとえば、2024年の夏、東海道・山陽新幹線は8月9日(金)から18日(日)を「お盆期間」として、通常期であれば自由席もある新幹線のぞみ号を、全席指定席での運行としました。JRのいう3大ピーク期(年末年始・ゴールデンウィーク・お盆期間)、つまり人々が日本国内を大移動する時期の一つとして、お盆はよく知られています。

 官公庁はまず連休にならないこのお盆の時期が、民間では当たり前のように休業期間として認知されていることは、2016年から祝日となった「山の日」が、8月11日に制定されたことからもうかがえます。実際、林野庁の情報誌『林野』(平成28<2016>年7月号)では、なぜこの日になったのかについて「多くの方々が休まれるお盆前」と説明しています。

①江戸時代のお盆の時期は7月中旬だった

 お盆の時期が、宗派や地域によって微妙に異なることは、すでに江戸時代には知られていました。たとえば、幕末期に書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』は、お盆の時期が京都・大坂と江戸で違うことを、対比して紹介しています。

 京都・大坂では迎え火を焚(た)くのが、日蓮宗の家のみ7月12日の夜で、他宗は13日の夜。そして送り火が、各宗ともに15日の夜。一方で江戸では、迎え火が日蓮宗も他宗も問わず13日の夜で、送り火は16日の夜。とはいえ江戸時代においては、京都・大坂であれ江戸であれ、7月中旬の行事であることは同じです。

②お盆の時期が各地でバラバラになった理由

 現在のように、7月15日前後や8月15日前後、旧暦に従うので年によって異なる(例えば2024年は8月18日が、旧暦7月15日に当たる)など、お盆の時期が各地でかなりバラバラなのは、1872(明治5)年末の改暦が影響しています。

 新暦7月15日前後にした土地、旧暦に従い続ける土地、丸々ひと月遅れ(中暦、とも呼ばれます)の8月15日前後にした土地などの違いがあるわけです。さらには、たとえば東京・多摩地方の一部で、お盆の時期が8月1日前後になっているのは、新暦8月15日前後だと養蚕の仕事が忙しかったからだ、と伝えられています。各地のローカルな事情で、時期にバラツキが生じたのです。

 ですので現在お盆の時期を説明するならば、各地のローカルな事情でバラバラだが、おおよそは「山の日」から後に続く時期で、全国的にはJRなどの「お盆期間」が適用される8月中旬、となるでしょう。

(2)お盆の目的:死者と付き合う社交の場

 先に見た『守貞漫稿』でもそうなのですが、お盆はしばしば「魂祭(たままつり)」の別名で紹介されます。ここでのタマは死者の人格を指し、丁寧に「御」を付けてミタマとも呼ばれます。

 そしてマツリ(専門的には、マツリとホカヒの区別もあるのですが、ここでは割愛します)とは、ミタマと付き合う約束事(手順・プロトコル)のことです。つまり、お盆行事とは死者との付き合い方の一つなのです。

 お盆は「先祖を供養する」と思われがちですが、お盆行事の様子を眺めると、もてなそうとする死者は、いわゆる先祖に限らないことは明白です。そのため、この記事では「先祖」ではなく「死者」としています。

 死者との付き合いは、それなりの切実さを伴います。切実さとは、別の言い方をすると、他人にはわからない/踏み込めない領域のことです。プライベートかつローカルな事情が優先される世界のため、突然また頻繁に死者と付き合うことは、専門家でさえ神経をすり減らします。

 そこで死者が突然にまた頻繁に来訪する危機を回避すべく、死者と定期的に付き合う社交の場が、お盆行事です。春秋のお彼岸行事も同様ですが、死者と付き合う約束事として、日本では仏教的方法が広く浸透しました。お盆やお彼岸の行事が、基本的に仏教の行事だと認識されているのも、そのためです。

(3)お盆の仏教的説明:インドから中国を経て伝わる

 お盆の歴史については、仏教の立場による辛嶋静志氏の説がとても明瞭です(参照:辛嶋「『盂蘭盆』の本当の意味」|『大法輪』2013年10月号)。

 インド亜大陸での修行者は、雨季には外出せず、洞窟や寺院内での修行に専念しました。これを雨安居(うあんご/単に安居とも)と呼びます。

 仏教徒は、古代インドの暦で4月15日(西暦の6~7月頃)あるいは5月15日(西暦の7~8月頃)から3カ月間が、雨安居の時期でした。この雨安居の最終日、古代インド暦だと7月15日(西暦の9~10月頃)あるいは8月15日(西暦の10~11月頃)に行われるのが自恣(じし)です。

 自恣とは、僧侶が集まり、雨安居中の罪を告白し、許しを乞う行事をいいます。自恣の日には、在家の人々が、僧侶に布施をする習慣がありました。

 この雨安居、そして自恣の習慣が、インドから中国へ伝わりました。ですが、中国に雨季はなく、暦の日付はそのままに中国の太陰暦へと移したので、中国の影響を受けた東アジアでは旧暦4月からの3カ月間が雨安居の時期となり、自恣は旧暦7月15日となりました。

 お盆のルーツを仏教的にたどると、仏教の修行期間である雨安居の最終日に、僧侶へ布施をする行事になります。

 辛嶋氏は、「インドから東南アジアへと伝わった雨安居また自恣の習慣が、その土地の暦との関係で、現在では西暦10月の満月の日に行われるワン・オークパンサー(雨安居を出る日)として賑やかに催されている」と紹介して、「現在の日本では意識されていないけれども、お盆行事は釈尊(しゃくそん:釈迦の尊称)の時代まで遡る、自恣の日を祝う由緒ある儀式なのだ」と説きます。

 ただ、ここまでの説明だと、死者との付き合いが抜け落ちています。死者との付き合いを考えるには、「お盆」の名称の由来とされる「盂蘭盆(うらぼん)」をその題目に含む『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』を、ひもとかねばなりません。

(4)お盆の由来:目連と阿難に由来すると説かれますが……

 「お盆」の名称は『盂蘭盆経』に由来する「盂蘭盆」の省略です。そのため、お盆の由来を説く際、『盂蘭盆経』の目連(もくれん)救母説話のみを取り上げられる場合が多々あります。しかし、お盆の由来は目連の逸話だけでは片付けられない点がありました。

①目連に由来するお話

 『盂蘭盆経』には、釈迦十大弟子の一人・神通第一と呼ばれる目連の逸話が描かれています。

 神通力を得た目連が世界を見渡すと、亡母が餓鬼道で苦しんでいました。目連自身の神通力でも亡母を救えず、釈迦に尋ねると、7月15日に自恣した僧侶たちへ供え物をせよ、と教えられます。

 釈迦は、このときに僧侶たちの徳が増して能力が高まり、威神力や呪願によって死者が救われるのだ、と説きました。この目連救母説話が、盂蘭盆会の起源譚(たん)です。

②阿難に由来するお話

 お盆の由来を説く際に、『盂蘭盆経』の目連救母説話のみを取り上げて済ませることも多々あるのですが、お盆行事を観察すると、亡き親・先祖だけでなく、それ以外の死者たちにも供え物を捧げているとわかります。

 これは、仏教の立場から、施餓鬼(せがき:飢えに苦しむ死者の霊に、飲食物を供えて供養するための儀式)と結びつけて説明されます。

 施餓鬼について説かれているのは『救抜焰口餓鬼陀羅尼経(くばつえんくがきだらにきょう)』というお経です。この説話の主人公は、これまた十大弟子の一人・阿難(あなん)です。

 口から炎を吐く餓鬼と遭遇した阿難は「お前は三日後に死んで、餓鬼へ生まれ変わるだろう」と告げられます。その解決法が数多の餓鬼に飲食を供えると知ったものの、さてどうしたものかと釈迦に尋ねたところ、その返答に従い執り行った法要が、施餓鬼会(施食会とも)の起源として描かれます。

 要するに、お盆行事を仏教的に説明すると盂蘭盆と施餓鬼の側面がある、と整理できます。

③実際のところは……

 「お盆」の由来である「盂蘭盆」が何かについては、梵語(ぼんご)で倒懸(とうけん:逆さづり)を意味する、としばしば説かれてきました。

 しかし先述した辛嶋氏は、梵語のみの知識に頼ったこれまでの解釈を批判し、インドにおける口語の知見を参照して『盂蘭盆経』の「盂蘭盆」とは、経典の内容そのままを示した、(お供えの)ご飯を入れた鉢、食事を盛った容器を意味するのだ、と主張します。

 この主張は興味深いことに、お盆行事を仏教的説明から解放しようと果敢に挑戦した、柳田国男が唱えた説とそっくりです。柳田はボンの呼び名について、梵語に直接由来するのではなく、供物の容器(祭具)の名称であろうと推測しています(『先祖の話』)。

 その後の民俗学では、日本におけるお盆行事の中心が死者への供物(盆供〈ぼんく〉)であったことが、文献記録の博捜により再確認されています(参照:新谷尚紀「盆」新谷・波平恵美子・湯川洋司編『暮らしの中の民俗学②一年』吉川弘文館)。

 また、より多くの民俗情報を比較検討して、お盆行事において「死者や先祖と共同飲食することが基本的に大切なこととされてきた」と、あらためて裏付けられています(参照:関沢まゆみ「戦後民俗学の認識論批判」と比較研究法の可能性|『国立歴史民俗博物館研究報告』第178集 https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/250)。

 以上のことから、仏教的に「修行僧への供え物がお盆の由来である」との説明を鵜呑(うの)みにするよりも、お盆行事そのものの観察結果に基づいて「飲食を伴う死者との定時総会であった」と把握した方が、しっくりくるでしょう。これからお盆行事をやろうとするならば、死者をもてなすことに主眼を置かれるのが、取り組みやすいかと思います。