香辛料漂うインターナショナルな新大久保駅に歴史あり

AI要約

新宿や新大久保を中心に、ターミナル駅の混雑や歴史的背景、駅名の由来などについて紹介される。

新大久保駅や大久保駅の歴史、周辺の文学者の移住背景などが詳細に述べられている。

新駅命名の傾向や、新××と呼ばれる駅名の増加についての意見も含まれている。

香辛料漂うインターナショナルな新大久保駅に歴史あり

渋谷や新宿といったターミナル駅では、かなりの乗客が入れ替わる。時間帯や号車にもよるだろうが、下車客に倍する客が乗ってくる――そんな印象だ。さらに近ごろは、大きなスーツケースを転がしながら移動する外国人旅行客も少なくなく、混雑に拍車をかける。

新宿駅には工事の関係でホームドアがまだ設置されていないから、看視する駅員や車掌も息が抜けまい。ドアが閉まり電車が動きだすと、一乗客にすぎない当方もなぜかホッとする。車窓から右側に歌舞伎町の繁華街、左側には西口の超高層ビル群を望みながら、靖国通りと青梅街道をつなぐ通称「新宿大ガード」を渡って新大久保駅へと向かう。

右手すぐの目の前に現れるのが西武線のターミナル、西武新宿駅である。プリンスホテルとの合築で、線路に沿った板状の高層建物は歌舞伎町の西端を画すランドマークだったように思うが、外壁にだいぶ傷みがめだつ。一方、東急が映画館の跡地を再開発した歌舞伎町タワーを近隣に建てたから、シンボルが交代しつつある感じだ。

歌舞伎町タワー4~5階のエスカレーター乗り場からは、西方へ分かれてゆく中央線を山手線が乗り越す様子がよく見える。山手線に架けられた橋は淀橋跨線橋(よどばしこせんきょう)といい、1922(大正11)年に架設された当時の橋脚は「門型鋼製ラーメン」という門外漢にはよくわからぬ構造ながら、鉄道橋としては国内最初の施工例だったとされる。ただし、いまは更新されてしまっているようだ。この跨線橋が山手線の最高所である、標高41.1m。

跨線橋の高みから電車は、高架上の新大久保駅めざしてほぼ直線で下ってゆく。1914(大正3)年11月15日に駅が開かれたときは地平駅だったのだけれど、山手線を複々線化した際、新宿駅周辺の配線を変更して淀橋跨線橋を設けるなど、中央線(緩行)との乗換えの便を改良したのにともない、新大久保駅も高架化されたのである。

ほとんどの駅が明治時代に誕生した山手線にあって、1914(大正3)年11月という開駅は遅い部類だ。高架ホームが1面だけの形態は五反田駅などと同じであるが、五反田には東急池上線や都営地下鉄浅草線が乗り入れているのに対し、新大久保は他に乗換路線をもたない“単独路線の駅”である。こうした駅は、山手線では他に目白駅を数えるのみだ。

先輩格の中央線大久保駅あっての新大久保だから、まず大久保駅について述べよう。

現在の中央線近郊区間を開いた甲武鉄道が、新宿-中野間に大久保駅を新設したのは1890(明治23)年5月で、その後、路線は東伸されて飯田町-中野間で電車運転が始まり、1906年には飯田町から大久保までが複線となった。そのころは、大久保止まりの電車もあったらしい。

駅開設時の一帯の地名は東京府南豊島郡大久保村だったから、村名を駅の名としたのは納得できる。電車運行開始と同時に運転間隔が短くなったので利便性が増し、明治末の駅周辺には島崎藤村や若山牧水、国木田独歩といった文学者も移り住んだのである。

新大久保駅は、大久保駅の開業から24年後に300m余の距離を隔てた山手線上に設けられた。大久保地区を代表する新しい駅という意味で「新大久保」と名づけたのだろうけれど、いささか安易な命名だったように思える。江戸時代に「鉄砲百人組」が付近に配されたことに由来する「百人町」の駅名のほうがよりふさわしかったのではないか。ちなみに、新大久保駅の現住所は新宿区百人町一丁目である。

なぜそんなことに拘(こだわ)るかといえば、新幹線の登場以降、「新××」を名乗る駅がやたらと増えたからだ。新横浜、新富士、新大阪、新神戸、新倉敷、新尾道、新岩国、新山口、新下関と、東海道・山陽新幹線だけで九つもある。新山口の旧称は小郡といい、これなど新駅名のほうが所在地の想像がつきやすいとの見方もあろうが、新倉敷の名に引かれて倉敷観光を志すと、乗換え在来線の本数は間遠(まどお)だ。倉敷へは、むしろ岡山で下車したほうが便利である。

東・西・南・北を冠した駅名も考えものだ。「浦和」にいたっては、浦和駅のほかに東浦和をはじめ東西南北つきがすべてそろい、くわえて中浦和や武蔵浦和駅まであって混乱の極み。この種の駅名は大ざっぱな場所の概念はつかめても、アイデンティティに乏しい。