伝法院の門に残る<ロック>の文字は反体制でもあの方の実家という意味でもなく…<旧町名>でたどる台東区の歴史

AI要約

102so(じゅうにそう)さんが旧町名の名残りを探し続けていることを紹介。

浅草區と下谷區が合併し、昭和22年に台東区が誕生したことを述べる。

台東区内の旧町名にまつわるエピソードを紹介。浅草象潟町、浅草區南松山町、浅草公園六区の歴史や由来に触れる。

伝法院の門に残る<ロック>の文字は反体制でもあの方の実家という意味でもなく…<旧町名>でたどる台東区の歴史

「現在では使われなくなった地名=『旧町名』は、古い家屋の表札やビルなど様々なものの中に発見することができる」と語るのは、16年以上、全国の旧町名の名残りを探し、その記録をブログなどで発信している102so(じゅうにそう)さん。ご著書の『旧町名さがしてみました in東京』より、今回は東京・台東区の旧町名にまつわるエピソードを紹介していただきました。102soさんいわく、「台東区は、浅草區と下谷區が合併して昭和22年に誕生した寺社仏閣大国」だそうで――。

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◆浅草象潟町、浅草區南松山町、浅草公園六区

<浅草象潟町>

昭和28年開始のテレビ放送の歴史の中で、ゆいいつ旧町名をさがす行為にスポットが当たる瞬間がありました。

平成27年6月13日放送のタモリ倶楽部です。

旧町名を街中でさがす内容で、電柱や店名や表札に残る浅草象潟(あさくさきさかた)町が紹介されました。

タモリさんと旧町名表札の邂逅は平成18年開始の旧町名さがしの到達点です。

<浅草區南松山町>

稲荷町駅と田原町駅を繋ぐ浅草通り南側に元浅草という町名があります。

元というからには浅草の発祥地的なやつかと思いきやそうでもなく、台東区の前身である下谷區と浅草區の境界、つまり浅草の基点的な意味で「元」浅草なのだとか。

その由来を証するかのように、浅草區時代の旧町名がいまでもしっかり現存中。

<浅草公園六区>

伝法院(でんぼういん)の門に掲げられているロックの文字。このお寺が反体制の教えを説くわけでも内田裕也さんの実家でもありません。

ロックとは「六区」、浅草六区という旧町名です。

正確には浅草公園六区といい、明治期に東京府が浅草寺境内とその周辺を公園地として指定・整備した際の6区画のうちの興行地区を指します。

もちろん6があるなら1~5に7まで存在し、六区はさらに1~4号地に区分されていました。

各区の場所を例示すると一区が浅草寺、二区が仲見世、三区が伝法院、四区が浅草観音温泉、五区が花やしき。そして六区は興業施設の浅草演芸ホール、東洋館、木馬亭など錚々たる顔触れ。

テレビが出現するまでの六区は劇場や映画館が軒を連ねる日本一のエンタメ街として隆盛を極め、震災で凌雲閣が倒壊しても戦災で街が焼失しても人々に娯楽を灯す街でありつづけました。

三区に位置するため本来「サンク」であるはずの伝法院にロックがあることからもわかるとおり、浅草とは六区なのです。