「大友宗麟」が、信長や秀吉、家康を差し置いて、同時代のヨーロッパで「最大の大名」と見なされていたのはなぜなのか?

AI要約

16世紀のヨーロッパと日本の関わりを通じて、大友宗麟の影響力や存在が明らかになる。

フランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイクが描いた作品により、大友宗麟の姿が描かれていることが判明。

大友宗麟の海外進出や外交活動について、新たな視点が提示されている。

「大友宗麟」が、信長や秀吉、家康を差し置いて、同時代のヨーロッパで「最大の大名」と見なされていたのはなぜなのか?

 本日(2024年6月19日)放送の『歴史探偵』(NHK総合:午後10:00~午後10:45、再放送:6月25日(火) 午後11:50~午前0:35)に「戦国ご当地大名シリーズ」一番手として登場する、豊後のキリシタン大名・大友宗麟。

 日本史においていわゆる「天下統一」に貢献したわけでもない、日本の複数の戦国大名のなかで必ずしも人気が高いわけでもない大友宗麟が、なぜ一番手? 

 番組にも登場する鹿毛敏夫さんの著書『世界史の中の戦国大名』では、16世紀のヨーロッパにおける大友宗麟の「日本史では知られざる顔」を、当時の絵画に見出します。

 【*本記事は、鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』から抜粋・編集したものです。】

 16世紀は、人類史上はじめて「世界史」と呼べるような地球的規模での人間のダイナミックな関係が生まれた世紀である。地球をそれぞれ逆まわりしてアジアで出会ったイベリア半島両国(ポルトガルとスペイン)の活動により、ユーラシアの東の端にある日本の状況も、さまざまな手法を使って彼らの本国に伝えられた。

 では、16世紀の日本社会をリードした「戦国大名」の存在はヨーロッパにどのように伝えられ、また、その戦国後期の日本社会はヨーロッパの人びとからどう認識されたのであろうか。

 例えば、織田信長が巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに与えた安土城とその城下を描いた屏風は、その後、ローマ教皇グレゴリウス一三世に献上された。

 しかし、私がこれまでに行ったヨーロッパにおける戦国大名関連の文献・絵画・版画等の史料調査で、最も多くの遺物を確認できたのは、天下統一に貢献した織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、あるいは武田信玄や毛利元就等の、日本史上で著名かつ評価の高い人物ではない。

 実は、16世紀のヨーロッパ史との関わりにおいて最も多くの影響をおよぼした戦国大名は、「Coninck van BVNGO」(豊後王)等と表記される九州の大名大友義鎮(宗麟)である。

 ドイツ南部のバイエルン州に、ポンメルスフェルデンという人口2000人あまりの小さな町がある。18世紀初頭、マインツ選帝侯でバンベルク司教のロタール・フランツ・フォン・シェーンボルンは、この町にヴァイセンシュタイン城を造営し、その宮廷内を多くの絵画で飾った。シェーンボルン伯爵コレクションと称されるその絵画群のなかに、17世紀フランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイクが描いた作品がある。

 作品のテーマは、二人の人物の出会いである。そのうち、画面左側の白いアルバを着た髭の人物はフランシスコ・ザビエルであり、彼は身をかがめて両手を広げ、壇上の面会者を敬意のまなざしで見上げている。一方、画面右側の王冠の人物は、壇上から歩み寄り、右手を差し出してザビエルを迎え入れるかのように歓迎している。

 美術史家の木村三郎氏は、1719年の美術館収蔵作品目録のなかでザビエルの面会者を「Kaiser von Japonien」(日本の王)としていることや、壇上の王が立ち上がってザビエルを「強い情念を抱きつつ迎えている」ことが、フェルナン・メンデス・ピント『東洋遍歴記』の「座っていた場所から5、6歩踏み出してきて彼を迎えた」と記す「豊後大名が、ザビエル師に示した敬意」の記事に一致することなどから、「当該作品は、ザビエルを歓迎する大友宗麟を描いたもの」と結論している(木村三郎「ヴァン・ダイク作、通称《日本の王に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル》について」)。

 大友義鎮(宗麟)を描いた絵画史料は、他のヨーロッパ諸国でも複数確認できる。

 *

 海に出たらやりたい放題!? 「王」を名乗って勝手に外交? ? 

 鹿毛敏夫『世界史の中の戦国大名』では、日本史だけではわからない戦国大名たちの野心あふれる海外進出が解明されています!