細田昌志氏『力道山未亡人』インタビュー「今起きていることは10年経てば歴史になり、人を描けば必然的に時代も描くことになる」

AI要約
元日本航空の客室乗務員で、力道山の未亡人となった田中敬子さんの生涯に迫るノンフィクション作品『力道山未亡人』の著者である細田昌志氏によるインタビュー。安部譲二氏の提案で敬子さんとの接点が生まれ、敬子さんの半生や未亡人の謎に迫る.著者が力道山亡き後のプロレス界の動きや敬子さんの人生に惹かれ、彼女が再婚しなかった理由や苦難を描きながら、敬子さんの過去に迫る内容。遺された30億の借金やプロレス界の裏側も取材を通じて明らかにされる.敬子さんの過去を紐解く中で、記憶を掘り起こす苦しみや過去を忘れられない辛さが描かれ、敬子さんの強い精神やその半生の複雑さが浮かび上がる.
細田昌志氏『力道山未亡人』インタビュー「今起きていることは10年経てば歴史になり、人を描けば必然的に時代も描くことになる」

 男性社会の洗礼を浴び、特殊な業界に翻弄されながら生きた一人の女性の数奇な半生を紐解く、小学館ノンフィクション大賞受賞作『力道山未亡人』。その著者である細田昌志氏に話を聞く。

 草創期の日本航空の客室乗務員で、わずか半年の結婚生活で『力道山未亡人』となった、田中敬子さん(83、以下敬称略)。細田昌志氏がその名前だけは知る“伝説の女性”と会うきっかけになったのは、彼女の日航時代の同期でもあった作家・安部譲二氏の一言だったという。

「安部譲二さんとは『沢村忠に真空を飛ばせた男』の取材で初めてお会いして、その時に〈次は誰を書くつもりなの〉〈敬子さんを書いてよ〉という話になったんです。そうこうするうちに安部さんの訃報が届き、一度は途切れたかに思えたご縁でしたが、また思わぬ形で繋がって、週に何日か敬子さんと直接会って話すようになっていきました」

 競争率260倍の難関を突破した元スチュワーデスは、健康優良児や青少年赤十字世界大会・神奈川県代表でもあり、そのプロフィールは力道山夫人となる以前からなかなかに華やかだ。そんな才媛が1963年12月8日に赤坂のクラブ、ニューラテンクォーターで夫が刺され、同15日に死亡して以降、なぜ60年以上も未亡人であり続けたのか──。安部氏や著者自身の疑問もまずはその一点にあった。

「安部さんはこう言ったんです。『敬子さんとは古い仲だけど、なぜ再婚しなかったのか、ずっと気になっててさ。オレからは訊けないから、代わりに訊いといてよ』って。確かに力道山が死んだ時、彼女はまだ22歳ですから再婚してもおかしくはない。であるのに、半年間の結婚生活を今も語り継いでいて、なんて不思議な人生なんだろうと、俄然書きたくなったんです。

 僕自身、昔からプロ野球とプロレスと大相撲が大好きで、力道山亡き後の日本プロレスのゴタゴタや社長業の内実、遺された借金が30億というけど何がどう30億なのかとか、訊きたいことは山ほどあった。

 ただ、日本プロレスの社長を裏切られる形で降りた時の話とか、彼女は思い出したくない過去は忘れる性格なんです。僕は当時の新聞や資料を彼女に示して、記憶を掘り起こすわけですけど、忘れないとやっていけなかったんだって考えると本当に心が痛んだし、実際言われました。『今日はイヤなこと、いっぱい思い出しちゃった』って」