売るあても貸すあてもない、それでも…「日本一のシャッター街」にある“半廃墟状態のキャバレー”を購入したオーナーが明かした“意外な考え”

AI要約

歓楽街の伝説的キャバレー「ムーランルージュ」の内部を探索する機会を得た一人が、当時の様子を興奮しながら思い出し、再び柳ヶ瀬を訪れて歴史を探る。

柳ヶ瀬は明治時代から続く歓楽街で、繊維問屋街の繁栄や美川憲一の歌で知られ、しかし経済の衰退や取り締まりにより衰え始めた。

ムーランルージュは柳ヶ瀬の興隆から衰亡までを見守り、ベテランの元従業員の話を聞くことでその歴史をたどることができる。

売るあても貸すあてもない、それでも…「日本一のシャッター街」にある“半廃墟状態のキャバレー”を購入したオーナーが明かした“意外な考え”

〈〈店内写真多数〉188店舗のうち159店舗が閉店状態…? “日本一シャッター率の高い商店街”に残る伝説のキャバレー跡「ムーランルージュ」にはいったいなにがあるのか〉 から続く

 岐阜市の歓楽街、柳ヶ瀬で最後まで営業を続けたキャバレー「ムーランルージュ」。2020年に閉店してしまった同店だが、この度運良く知人の紹介で内部を探索させてもらう機会を得た。

 当時の様子がそのまま残ったような姿には思わず興奮。大満足しながら帰路についたのだった……が、落ち着くにつれ、さらにムーランルージュのことが気になってきた。いったいどんなお店だったのか。そして、街にはどのような歴史があるのか。再び柳ヶ瀬を訪れて聞き込みをしていく。

 ここで、まずは簡単に柳ヶ瀬のことをおさらいしておきたい。

 柳ヶ瀬の起源は明治時代に開設され、岐阜市制の礎ともなった金津遊郭。戦後は、昼は劇場などの娯楽と商店街として、夜は歓楽街として生まれ変わった街だ。発展の大きな理由は同様に焼け野原となった岐阜駅前に形成されていた繊維問屋街。そこでの莫大な利益が柳ヶ瀬へと流入してくるかっこうで、街は多くの人でごった返すようになった。1966年に発売された美川憲一さんの「柳ヶ瀬ブルース」は120万枚を超える大ヒットを記録するなど、柳ヶ瀬が名の知れた歓楽街だったことがわかる。しかし、その頃をピークに、柳ヶ瀬の繁栄に陰りが見えはじめる。

 国内の繊維産業の衰退の影響が柳ヶ瀬にも如実に現れたのだ。

 また、マイカーの普及によって郊外の大型ショッピングモールに人流が移ったり、2005年に路面電車が廃止されたことも一因だろう。そして、決定打となったのが地場経済の崩壊が進むなか、2012年の岐阜国体に先立って行われた、性風俗店を一掃する浄化作戦。夜の顔である歓楽街の取り締まりによって来訪者が減少し、それが昼の顔である商店街にも大きな打撃を与えたのだ。以降、大型店も次々と消えてゆき、最後に残った岐阜高島屋も、2024年7月での撤退を発表している。

 そんな街の興隆から衰亡までを見守ってきたのがムーランルージュといえるだろう。

 当時を知る人へ話を聞くため、私は柳ヶ瀬のスナックに向かった。ムーランルージュのすぐ近くにある、柳ヶ瀬センターという横丁で唯一営業しているスナックいずみに入店する。

 スナックを一人で切り盛りするいずみさん(72歳)は、この道50年のベテランだ。21歳の時、退屈だった銀行員を辞めてこの世界に入った。31歳から51歳までの20年間、ムーランルージュに勤務していたという。