斎藤元彦兵庫県知事の行動よりもっと深刻…医師・岩田健太郎「何が起きても心を変えない人の大問題」

AI要約

パワハラをする人が自らの行動を問題と認識できないことが、パワハラがなくならない原因である。

過去の経験を繰り返し、自己認識をアップデートできない人物がいじめやパワハラを続けることが大きな問題である。

自己認識を拒否し続ける人物はリーダーとして不適格であり、他者の意見や批判に対しても耳を傾ける必要がある。

職場や共同体のパワハラはなぜなくならないのか。感染症医の岩田健太郎さんは「パワハラをする人は、どんな出来事でも自分の偏愛する理論で解釈してしまい、何が起きてもそれを問題として認識することができない」という――。

■「パワハラではない」という拒絶への失望

 研修医だった何十年も前、私は上級医から厳しく鍛えられた。

 それは今の目から見れば「パワハラ」と認定されるようなものだったかもしれないが、教えるほうも教わるほうも、当時はそのような認識がなかった。

 指導する立場になり、私も上級医の方法を真似た。それもまた、今の目から見れば「パワハラ」であったと、思い返すに冷や汗がでる。

 誤解を恐れずに申し上げるならば、パワハラという現象が過去に存在したこと「そのもの」の問題自体は相対的には大きくない。あくまでも「相対的には」という話であり、決して小さい話なのではないけれども。

 より大きな問題は、往時の行為をパワハラと認識し、自らをアップデートし、そして振る舞いを改善できないことである。問題そのものよりも、問題を問題と認識できないほうがより大きな問題なのだ。

 「いじめ」にしても「誹謗(ひぼう)中傷」にしても加害者は「なんでこの程度のことで、みんな怒っているのだろう」と無反省な態度を取りがちだ。だから、問題は解決しないのだ。「自分が若い頃もこうだった」と過去の体験を再生産している限り、いじめも誹謗中傷もパワハラも止まらない。過去の経験を再生産するものか、という断固たる決意と認識が大切なのだ。

 私は、兵庫県知事斎藤元彦氏があれをやったこれをやったというエピソード自体よりも、それを咎められた知事本人が、「パワハラではない」と自己認識のアップデートを拒み続けていること自体に大いに失望している。自己認識をアップデートできない人物はリーダーでいる資格はない。

■自覚する私と他人が言い当てる私との距離

 私は立場性や党派性に興味関心がない。

 だから、男社会でふんぞり返るためのトロフィーとして女性を手にしようという気持ちが欠片(かけら)ほどもない。むしろ、愛する女性のためならばそういう「男社会」からドロップアウトすることも上等だといつも考えている。

 「偉い人」の歓心を買うために非生産的な会議に参加したり、役に立たなそうな業務を引き受けたりするくらいなら、さっさと帰宅して今夜の夕食の準備をしたい派なのである。

 「そんなことはない、お前は女性を男社会のトロフィーとして扱うホモソーシャル野郎だ」と宣言することは誰にでも可能だが、それを証明できる人はいない。

 私が私自身の感じ方を十全に理解しているという自信はなく、無意識のうちに感じている、無自覚な感じ方も存在するのであろうが、少なくとも私が何を考え、感じようが、他人がそれを正確に言い当てる可能性は、私の自覚する私の感じ方の正確性よりは、高い保証はない。

 私がどのような家事を日々行い、どのように育児に参加しているかをここで述べるつもりはない。それはわれわれ夫婦の間で見いだした最適解であり、関係ない外野に査定されるのは本意ではない。

 「その程度の家事で、家事をやったつもりになるな」みたいな誹謗中傷をされるのもまっぴらごめんである。というか、そういうのってモラハラと言わないのだろうか(妻に言えば絶対にそうなる)。