《悪夢のような光景》秘密警察に牢屋に入れられ…多くの人が知らない「旧ソ連の占領下の暮らし」の嫌な実態

AI要約

硫黄島で何が起きていたのか、日本兵1万人が消えた謎について、ノンフィクション作品が人気を集めている。

三浦さんは樺太で少年時代を過ごし、共産主義下での暮らしを経験した。

父の戦死、生活困窮、そして努力と挫折を繰り返しながら、三浦さんは生涯現役で働き続けた。

《悪夢のような光景》秘密警察に牢屋に入れられ…多くの人が知らない「旧ソ連の占領下の暮らし」の嫌な実態

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が12刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

三浦さんは1932年、北海道北端の稚内市で生まれた。陸海軍の青年将校たちの反乱事件「五・一五事件」が起きた年だ。

稚内の対岸の樺太(現サハリン)は当時、製紙業、水産業、炭鉱業などが活況を迎え「宝の島」と呼ばれていた。海軍の通信所に勤めていた父・末治さんは、樺太庁の中央試験場に転職した。

これに伴い4歳の三浦さんは樺太の豊原市(現ユジノサハリンスク)の北の小沼(現ノボアレクサンドロスカ)に移住した。かつて小説家チェーホフも訪ねたという地域だ。

そこにはサハリンがロシア帝国の流刑地だった時代に流された政治犯のポーランド人たちもいた。「大変、教養のある人たちだった」(三浦さん)という。三浦さんは小沼で少年時代を過ごした。父は1943年に召集令状を受けて出征した。父がいない暮らしが始まった。

三浦少年は1945年春、中学校の入学試験に合格した。父に褒めてもらおうと、合格を伝える手紙を書いた。以前、戦地から届いた葉書の差出人欄にあった略号を宛て先欄に書いた。

「ウ27ウ451」

当時は、誰がどこの戦地にいるのかは機密対象だった。そのため、軍事郵便にはこのような略号が使われた。当然、この「ウ27ウ451」がどこなのか三浦少年は分からなかった。何度も手紙を書いた。だから、この略号を生涯、忘れなかった。待てども、待てども、父から合格を褒めてくれる手紙は届かなかった。

1945年4月。中学校に入学後、授業が行われたのは最初の数日だけだった。以後は工場や農作業など勤労奉仕の日々だった。

そして8月、ソ連軍が樺太への侵攻を開始した。日本がポツダム宣言を受諾し、国民に降伏を発表したのは8月15日。三浦少年はその1週間後の22日、「悪夢のような光景」を見た。

その日、三浦少年の頭上をソ連機が通過していった。戦時中は空襲警報が鳴ったが、この時は鳴らなかった。すでに「戦後」だったからだ。ソ連機は、数キロ先の豊原市上空まで行くと、ぱらぱらと「ゴミのようなもの」を落とした。そして煙がもうもうと上がり始めた。いわゆる「豊原空襲」だ。日本が先の大戦で受けた最後の空襲の悲劇といわれる。どれほどの人が命を奪われたのか。犠牲者数の全容は未だに分かっていない。「なぜあちこちで大きな白旗を掲げている無抵抗な街に爆弾を落とすのか」。三浦少年は憤った。

ソ連軍の兵士が進駐してきたのは、その2日後だった。体が大きく、日焼けした兵士の顔には殺気が残り、三浦少年の目には「赤鬼」に見えた。以後、赤鬼による略奪などの被害が相次いだ。三浦少年と母、兄弟が身を寄せた知人宅にも鬼は襲いかかった。室内を荒々しく物色したが、10分ほどで姿を消した。あっさりと引き揚げたのは、子供がたくさんいたからだと三浦少年は思った。

「旧ソ連の占領下の暮らしは暗かった」。共産主義がうたうのは「平等」だ。平等なはずなのに、軍隊の将校は上質の白パン、一般の兵士は黒パンと、配給されるものが違った。

「何かを批判するとゲーペーウーにチョロマンされる」。何度も大人に注意された。「ゲーペーウー」は秘密警察、「チョロマン」は牢屋、という意味だと教わった。「生産性もなにもない。こういう世界は嫌だ」と心底、思った。一方で、「ソビエトという国は嫌いだが、渡ってきた人々はおおらかでつきあいやすく、打ち解けた」。国家と人々は違う。三浦少年は共産国での2年間で、そんなことを学んだ。

1947年7月にようやく函館港に引き揚げた。そこで帰国の手続きをした際に、父が硫黄島で戦死していたことを初めて知らされた。三浦少年は生きていると思っていた。父は樺太の草野球チームで捕手を務め、華麗にボールをさばき、マラソン大会ではトップでゴールに帰ってきた。運動神経が抜群だった。だから、生き抜いている。三浦少年はそう信じていた。

しかし、現実は違った。大黒柱を失った一家は、親族のいる札幌近郊の恵庭に移った。このとき三浦少年は14歳だった。中学校には復学しなかった。貧困から母と兄弟を守るためだった。

丸太小屋で木材を運ぶ仕事を始めた。その後、国鉄の教習所で教官のお茶くみや清掃などをする仕事を得た。そこで教官から休憩時間にそろばんを教わった。三浦さんが受けた学校教育は事実上、小学校までだった。勉強ができる喜びは大きかった。しかし喜びの日々は続かなかった。国鉄の人員削減のあおりで、閉所されたからだ。がっくりと落胆した。

なんとか収入を得るため、海上自衛隊の前身の海上警備隊に入ろうとした。母に「父に続いてお前まで戦争に取られたくない」と猛反対されて、断念した。明るく希望に満ちた映画「青い山脈」が流行したのはこの頃だ。挫折に次ぐ挫折。「近所の映画館で公開されたが、とても観に行く気分にはなれなかった」。

配給所で米を運ぶ仕事を得た。60キロに満たない体で80キロの米俵を運ぶのはつらかった。やがてその勤勉な働きと、抜群のそろばんの才覚が認められ、信用金庫の地元支店の事務員として採用された。定年の60歳まで働いた。勤務中、独学の努力を重ね、行政書士、社会保険労務士の資格を取った。定年後に事務所を開設した。そして生涯、現役で働き続けた。