硫黄島の最重要施設「滑走路」は誰のものか…日本がアメリカに忖度し続けた「衝撃の実態」

AI要約

日本兵1万人が消えた硫黄島で起きた出来事についてのノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』の内容を通じて、硫黄島の歴史や滑走路の管理権などについて考察されている。

硫黄島返還に際して行われた日米合同委員会の議事録から、米国が日本側に様々な規制を課し、核戦略の安全保障政策に密接に関わる電波通信施設の運営に配慮していたことが明らかになっている。

米国は硫黄島を通じて核ミサイルを発射する潜水艦の運航に必要な電波を妨害しないよう、日本側に対し具体的な措置を要求していたことが浮かび上がる。

硫黄島の最重要施設「滑走路」は誰のものか…日本がアメリカに忖度し続けた「衝撃の実態」

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が11刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

硫黄島の最重要施設とも言える滑走路は、米軍施設から自衛隊施設となった。管理権は当然、日本側にある。しかし、その実効性を疑わせる公文書がある。

1979年7月6日に防衛庁事務次官室で行われた会議録「硫黄島施設の整備について」(国立公文書館所蔵)だ。この公文書に、以下の記載があった。〈米国との小笠原返還協定(43・6・26効力発生)に伴い、日本政府は、米国に対し、滑走路、誘導路、駐機場、タカン等の維持を含め、返還時の状態を維持することが義務づけられている〉。

コンクリート舗装を剥がして土中を探るなど滑走路地区の本格調査を遺族らに望まれながらも、未だ実現していないのは、形式上の管理権は日本側にあるものの、米軍側に忖度しなければ現状変更が難しいからではないのか。そんな推論が頭をよぎった。

さらに目を引く記録が米国国立公文書館所蔵の公電「A-1315」だ。公電は1968年4月9日に米国大使館が国務省に宛てたものだ。この中に、小笠原諸島返還協定が締結された4月5日に行われた日米合同委員会の議事録が収載されていた。議事録は全ページに、米国側代表のジョンソン大使と日本側代表の東郷文彦外務省北米局長のサインや〈CONFIDENTIAL(秘)〉の文字が記されている。

議事録によると、ジョンソン大使は、返還後の小笠原諸島に関して様々な提案をし、東郷北米局長は「日本政府にとって受け入れ可能です」とすべての提案項目に合意している。合意項目の中に〈日本政府は地位協定に従い電波障害除去のための適当な措置をとる〉という米国側の提案があった。

米国側は、硫黄島返還に際して、電波障害が生じることを非常に警戒していた。実はこの当時、日本本土では米軍の通信施設とその周辺地域の軋轢が社会問題化していた。

その一例が横浜市の上瀬谷通信施設を巡る問題だ。米軍側は、広大な周辺地域を「電波障害防止制限地区」に指定し、地域住民に対してさまざまな制限を課した。1968年3月のサンデー毎日の記事「特報 団地に来た“米軍命令”」によると、米軍側による制限は蛍光灯やヒーターの使用禁止など細かな行動にも及び、新築する建物も〈高さ二〇フィート(約6メートル)まで。鉄筋鉄骨は一切ダメ〉などと規定。こうした防止地域が全国の〈一二ヵ所〉の米軍基地にも広がろうとしており、各地で〈すでに強い反対運動がはじまっている〉とし、全国規模の問題に発展していると報じた。この問題は1969年5月1日付の読売新聞も報道。〈電波障害を理由に(中略)、自由にクワを振るうことさえ〉禁じられた上瀬谷地区の農家の怒りを伝えている。

硫黄島の場合、住民が一人もいないため、問題化することはなかったということだ。

こうした経過から浮かび上がってくるのは、米国は返還に際して、日本側を様々な規制でがんじがらめにしたという実態だ。目的はただ一つ、米国にとって最大の安全保障政策である核戦略の遂行だ。核ミサイルを発射する潜水艦の運航には、硫黄島に電波通信施設を置く必要があり、その任務遂行に必要な電波を妨害しないよう日本側に求めていたのだ。