こうして日本人の「新聞離れ」が進んでいった…「エモい記事」を大量に生み出した新聞記者たちの悲劇的な結末

AI要約

全国紙の発行部数が右肩下がりであり、ネットメディアの影響により新聞記者が事実よりも刺激的な言葉を重視していることが衰退の一因とされている。

新聞業界は全体的に危機的な状況であり、ネットメディアも収益化が難しく新人育成にも課題を抱えている。

記事の品質が低下し、オピニオン主体の内容が増えている現状が指摘され、新聞社の未来に不透明な要素がある。

新聞の夕刊が次々と姿を消している。全国紙の部数は右肩下がりだ。ノンフィクションライターの石戸諭さんは「全国紙はこの20年で発行部数はほぼ半減し、業績が回復する兆しも見えない。新聞記者がネットに影響され、事実よりも“刺激の強い言葉”を優先するようになりつつあることが衰退の一因ではないか。事実確認の規律を守り、ジャーナリズムの基本に基づいた『強い』記事を出し続けてほしい」という――。

■「全国紙」のビジネスモデルは終わりが近い

 「新聞は商品なり」

 私がかつて所属した毎日新聞を大きく発展させた戦前の名経営者、本山彦一の言葉だ。新聞はいよいよ危うい。日本新聞協会によれば、1世帯あたり部数はついに0.49部にまで下がり、毎日新聞は富山での配送休止を、日本経済新聞の一部九州エリアの夕刊休止という発表も続いた。

 全国紙の発行部数は悲惨な状況にある。文化通信が報じた日本ABC協会の新聞発行社レポート(2024年上半期1~6月の平均販売部数)によると、2000年代初頭には1000万部超を誇った読売新聞は約595万部、朝日新聞は約343万部、毎日新聞は約154万部とゼロ年代と比べて半数以下になった。電子版が比較的好調な日本経済新聞も、ゼロ年代と比べて半数以下の138万部となっており紙版の減少分を代替するまでには至っていない。

 「新聞紙」という商品の市場は拡大の兆しはなく、「全国紙」のビジネスモデルは終わりに近づいてきている。反マスコミ論者にとってみれば、朗報中の朗報といったところだろうか。

 問題の多いマスメディアは潰れてもかまわない、というのは一つの筋だが私には喜ばしいこととは思えない。インターネットメディアが順調に発達して、人材育成まで担えるようになれば新聞が無くなったところでまったく困らないと豪語できたのだが、現実は紙以上にネットメディアの方がダメージは大きい。

■ネットメディアも新人育成を試みたが…

 私はかつて「黒船」と呼ばれたアメリカ発のネットメディアに立ち上げから関わったことがあったが、日本ではわずか数年で報道部門は無くなった。端的にいえば収益化が難しくなったからだ。

 インターネット「だけ」のニュースメディアで成長を遂げたところはほとんどと言っていいほどになくなった。そこに日本のメディアの危機がある。2010年代後半に、気鋭のインターネットメディアを率いた編集長は私にこんなことを言った。

 「うちも新人を採用します。1回で終わらせず継続して取ろうと思っています。うちで本物のジャーナリストを育成できるか、それとも新聞のほうがうまく育成できるのか。そこは勝負ですね」

 彼の構想は数年もしないうちにあっという間に崩れ去った。当時の新人は他社に転じてしまい、インターネットメディアで新聞社以上の規模での新人育成がうまくいったという話はまったく聞かない。

 さらに言えば人材育成やスキルアップもなかなか難しい。

 これも現状は、という注釈はつくがネットメディアから出てきた“ジャーナリスト”の記事はどうしてもオピニオン中心という傾向が強く、粘り強くファクトをとってくる技術に乏しいように思う。問題はそれだけではない。推測に推測を重ねたような緩い表現が横行し、情報の重みづけができておらず、陰謀論すれすれか過剰なオピニオンで売り物になる原稿が拡散していく。

 新聞記者出身だからファクトベースになっているとは断言できないのは悲しいところだが、現状、新聞社が弱っていけば、その分だけ一から取材して何らかの形でアウトプットに繋げることができるジャーナリストの数は減る。どんな市場でも言えることだが、競争が弱まっていけば、技量を高めようというインセンティブも弱まる。

■「エモい言葉」はメディアをどう変えたのか

 そんな時代にあって、新聞社が好転する道があるのか否か、私にはまったくわからないが、少なくとも陥ってはいけない道は見える。

 まずシェア数、PV数、コミュニティ重視に陥って崩壊した10年代のネットメディアの模倣をしないことである。社会学者の西田亮介氏が朝日新聞のウェブサイトでそこまで「エモい記事」がいるのか? と問題提起をしたことが業界内で話題となったとき、思い出したことがある。

 私は著書の中で、「エモい」という言葉を10年代に流行した象徴的な言葉と記したことがあった。10年代に一緒に働いていた若いライターたちがよく使っていた言葉で、彼らが指標としていたのは感情が突き動かされる「強さ」の度合いだった。「エモい」は褒め言葉で、人々の感情を刺激する強さが強ければ強いほど良いとされていた。

 結果、何が起きたのか。人々の感情を刺激する「強い」言葉を選び、ライターもまたコミュニティの価値観を強く代弁し、常に正しく、強い言葉を使うようになった。そこに継続性はまったくなかった。