対馬丸の悲劇、撃沈から80年 400人が平和誓う 

AI要約

1944年に米軍の攻撃で沈没した対馬丸に関する慰霊祭が開催され、遺族ら400人超が参列して犠牲者を悼んだ。

対馬丸は学童784人を含む1484人が死亡し、全容は未だにわかっていない。生存者や遺族らへの口止めが厳しく行われた経緯が明らかにされた。

対馬丸の撃沈から80年が経ち、生存者は2人にまで減少している。悲劇を繰り返さないために記憶を大切にする必要があると訴えられた。

対馬丸の悲劇、撃沈から80年 400人が平和誓う 

 太平洋戦争中、沖縄から九州へ疎開する子どもたちを乗せた「対馬丸」が米軍の攻撃で沈没してから、22日で80年となった。慰霊碑「小桜の塔」の前で慰霊祭があり、遺族ら400人超が参列して犠牲者を悼んだ。

 対馬丸は1944年8月21日に那覇を出港。22日夜、鹿児島県・トカラ列島沖で米潜水艦の攻撃を受け、沈没した。判明しているだけで1788人が乗船し、学童784人を含む1484人が死亡した。

 軍や警察は当時、撃沈について生存者や遺族らに厳しく口止めしたため、被害の全容はわかっていない。当時、子どもの保護や軍の食糧確保の必要などから疎開を推し進めており、撃沈によって住民が非協力的になることを懸念したとされる。

 対馬丸記念館(那覇市)によると、語り部を続ける生存者は2人にまで減った。記念会の高良(たから)政勝理事長(84)は「今もなお海底深く眠っている犠牲者、そして帰りを待ちわびていたご遺族の気持ちを考えると長すぎる時間が過ぎた」とし、「悲惨な出来事を二度と繰り返してはいけない」と語った。(棚橋咲月)