【社説】被爆者の記録 生きた証し核廃絶の力に
長崎原爆の被爆者山口仙二さんが国連軍縮特別総会で演説し、被爆の記憶と記録を維持する必要性が示される。
被爆者の写真や体験が被爆の実相を伝え、被爆者が存命のうちに記録を残す重要性が強調される。
今回の平和祈念式典でG7やEUの駐日大使が欠席する現実もあるが、核兵器廃絶へ向かう努力は続けるべきだ。
長崎原爆の被爆者山口仙二さん(2013年死去)が、被爆者として初めて国連軍縮特別総会で演説したのは1982年だった。
「ノーモア・ヒバクシャ ノーモア・ウォー」。原爆に焼かれた自身の上半身の写真を手に叫ぶ姿は、被爆者の存在と切なる願いを世界に知らしめた。
長崎はきょう、被爆から79年を迎える。山口さんが国連で掲げた写真を入り口に、被爆の記憶と記録を継ぐ意味を改めて考えたい。
■ケロイドにかみそり
それは山口さんがケロイドのある首筋にかみそりの刃を当てている写真で、39歳だった1970年に撮影された。
14歳で被爆してからずっと体に残ったままのケロイドは、原爆の威力のすさまじさと非人道性、あまたの被爆者の苦難を物語る。
撮影した村里栄さん(90)=長崎市=によると、たまたま風呂上がりを撮らせてもらったという。
被爆者の写真集「長崎の証言」の撮影で山口さん宅を訪ねた。玄関先で散髪を終え、風呂場に向かう山口さんについて行った。風呂から出ると、おもむろにかみそりを手にした。
「ケロイドには毛なんか生えないと思うんだけど、よく見たらひげではないけれど、産毛みたいなものに当てておられたんです」
ケロイドにかみそりの刃を当てたのは撮影の演出ではない。山口さんの日常だった。
あの日から何十年たとうとも、被爆者の暮らしから原爆の傷は消えない。写真の山口さんはそう訴えているように思える。
長崎原爆で約7万4千人の命が奪われた。生き残っても原爆症に苦しみ、結婚や就職で差別を受けた人が少なくない。今なお被爆したことを明かせない人もいる。
被爆者の老いが進み、79年前のことを証言する人は少なくなる一方だ。被爆者健康手帳を持つ人は10万人余りで、80年代の3分の1以下になった。平均年齢は85歳を超え、地域から被爆の記憶が少しずつ薄れていく。
山口さんの写真のように、被爆者に肉薄した記録の重要性は一層高まる。それは被爆した人々が生きた証しでもある。
被爆者が存命のうちに、あるいは被爆者とじかに接した人や被爆2世が健在なうちに、被爆体験を掘り起こす努力を続けたい。
■犠牲者に背中押され
爆心地から500メートルほどの城山小の一角に、旧城山国民学校の被爆校舎が保存されている。現在は平和祈念館として、被爆した学校の記憶を伝える。
展示品の中に、当時教頭だった故荒川秀男さんの体験記がある。教職員約30人が犠牲になる中で、荒川さんは奇跡的に生き残り、戦後は城山小の校長を務めた。
被爆から25年後の65歳の時、亡き同僚の思い出を原稿用紙46枚につづった。体験記を残した動機が日記に書かれている。
<年の経過と共に原爆の悲惨と殉難職員の悲惨も忘れられていくことと思うのである/殉難児童と職員を永久に記録しこの悲惨事を繰り返すことのないように>
(1970年6月27日)
荒川さんは師範学校で絵画を専攻した。ルノワールのような穏やかな絵を黙って描き、言葉で何かを残す人ではなかったという。
息子の和敏さん(90)は「在職中はいかに原爆を忘れるかという時期が続いた。退職後、原爆で亡くなった先生方に背中を押されるようにして書いたんでしょう」と胸中を推し量る。
記録に込めた故人の内面に触れることができれば、被爆の実相は立体的に伝わるだろう。
きょうの平和祈念式典は、日本を除く先進7カ国(G7)と欧州連合(EU)の駐日大使が出席しないことになった。世界で絶えることのない紛争の影響だ。各国がそろって核兵器廃絶へ向かうことが困難な現実も確かにある。
それでも、私たちは被爆の記憶と記録を継ぐ営みを続けなくてはならない。世界に共感が広がり、いつの日か核兵器をなくす力になると信じている。