わたしたちはこの国にダマされている…日本をダメにした「明確なターニングポイント」

AI要約

地方創生という言葉が喧伝されるようになって10年が経過した。メディアでの評価は分かれるものの、地方移住の促進や一極集中の問題点の浮き彫り化に一定の評価がある。政府の地方創生10年検証はデジタル化に焦点を当てており、その一方でデジタル化だけが解決策ではないとの指摘がある。

デジタル化が必要だと認識される中で、人々の直接的な交流や議論の重要性も指摘されるべきだ。デジタル化は支援手段であり、問題解決の唯一の手段ではない。地方自治や現場の試行錯誤も重要である。

政府の報告書には国のデジタル化推進への力強い主張と、地方政策や国の役割に関する当たり前の主張が混在している。今後はバランスを保ちながら、国と自治体が協力して地方の発展に取り組むべきだ。

わたしたちはこの国にダマされている…日本をダメにした「明確なターニングポイント」

「地方創生」という言葉が喧伝されるようになってから10年が経過した。メディアでは否定的に見る向きもあるが、地方移住が当たり前になったこと、都市部への一極集中に伴う問題を顕在化させたことに関しては、一定の評価を与えてもいいのではないか。前編記事に続いて、今度はなぜこの国に「ひずみ」が生まれてしまったのか、それはいつだったのかを改めて述べていく。

政府の地方創生10年検証(「地方創生10年の取り組みと今後の推進方向」)その中身を見るとあまりにも「デジタル化」に偏っており、実に異様な報告書である。

たしかに、コロナ禍を契機として進んだデジタル化の必要性は実感されるものになった。だが、そのデジタル化で何もかもが解決できるような風潮が政府の中で出てきているとすればまずいのではないか。少子化に関していえば、デジタル化が進めば人が外に出なくなり、交流・移住はもとより人々の接触が減って、むしろますます少子化にむかうというべきだろう。

もっと人々が直接交渉し、議論し、様々な問題を具体的に解決していくべきーーコロナ禍対策の本当の反省から出てくるべきはこれである。

デジタル化は、多少はそのサポートとなるだろうが、解決の手段などでは到底ない。

何が何でもデジタル化を推進する――まさしくこの考え方こそが、地方自治の否定、国策中心主義ではないか。

実際、例えば小中学校のギガスクールなども、上からの決めつけ政策に教員側があわせる状態が続いているようだ。外に出ればいくらでも写生の素材はあるだろうに、タブレットで撮った写真を写生したり、あるいは誰がとったのか分からないネット画像を元に子どもたちが絵を描いたりする授業が行われている。それもこれも、政府から配布されたタブレットを使うことが目的になっているからである。

どうもこの政府の検証報告書には、ともかく国の<デジタル化を進めたい>という力と、それに対して、<本当に必要なのは小さな自治体・現場の試行錯誤で、国はそれを支える役にまわるべきだ>とする、当たり前の地方政策、当たり前の国のあるべき姿を主張する声の、二つのバラバラな内容が混在しているようである。